月の時計のAlice [a r c h i v e s]
《幽霊なった男の話をしよう》というナレーションから始まる長編作『星の時計のLiddell』(ぶ〜け 1982~83)は、主人公の見る夢の中へ彼自身が「消滅」してしまう物語である。1981年、2年振りにシカゴへ帰って来たウィーン生まれのロシア人、ウラジミール・ミハルコフは友人ヒュー・V・バイダーベックの「夢」に恐れを抱きながらも惹かれて行く。夜ごとに現われる同じ夢の進行‥‥屋根裏部屋→19世紀末に流行したヴィクトリアン・ハウス→薔薇の茂みの中に隠れている「金髪の少女」→リデル(Alice Liddell?)という名前と共に深まる謎(Riddle?)‥‥。困惑するウラジミールとミステリアスなヒュー(作者は彼の心理描写を一切しない)。ボストンのアンティーク・ショップでヒューが偶然に見つけた少女の写真によって「夢」の実在を認めざるを得なくなったウラジミールは、ヒューの「夢見る家」と「少女リデル」を探す旅へ同伴することになる。
ここまでが全体の3分の2(単行本1〜2巻)に当たるが、第3巻が刊行されて完結するまでに「ぶ〜け」連載終了時から数えて3年、第2巻の発刊からでも丸1年も経過してしまったのは何故だろう?‥‥。連載分の『リデル」と比較・対照することで少しは解明出来るかもしれない。約30頁分の加筆と入念なネーム修正──それは気の遠くなるほど根気の要る作業だが(2枚の良く似たイラストの相違を指摘する「間違い探しクイズ」の趣きもなきにしもあらず)、読者にとってはワクワクする新しい発見であり、同時にクスクス笑いを誘発する愉しみでもある。たとえば、生蠣のオードブルのカットが食後のビリヤード・シーンに差し替えられ、スヌーピーの顔が隠されている(肖像犬?)。病院前の人物・人影の描き加えや人物カットの背景(空白)の描き込み。2頁分のコマ割りを4頁に拡大加筆。30頁にも及ぶ会話部分の大幅なネーム変更など‥‥。その結果、全体としてコマ割りが大きくなった。後半のゆったりした時間の流れはウラジミールの「覚醒」と、やがて訪れるであろうヒューの「消滅」へ向けて、必要な「時間」と「空間」なのかもしれない。
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『リデル』を所謂「アリスもの」の変種と看做すことが可能だろうか。リデル家の「愛くるしい3人姉妹」の末妹をモデル=ヒロインにしたルイス・キャロルの有名な物語は、少女が「現実」から別世界(夢の国)へ往って‥‥還って来るファンタジーの基本構造を持つ(たとえばG・マクドナルドの『リリス』やM・エンデの『はてしない物語』)。ところが『リデル』の場合、主人公のヒューが行ってしまうのは100年以上も昔の「過去」であり、しかも2度と「現在」には戻って来ない!‥‥。愛しのリデルちゃんは「夢見る家」(『紙葉の家』みたいな幽霊屋敷だったりして?)に永遠に幽閉されたままなのだ(もしファンタジーならば、ヒューが亡霊たちから囚われの美少女リデルを救い出して、一緒に「現在」へ帰還するストーリ展開になるだろう)。
主人公が「異界」から2度と還って来ないこと、人間以外のもの(モンスターや幽霊)を希求することなどから、『リデル」は『アリス』とは逆にゴシック・ロマン風のダークな色彩を帯びる(たとえばフィリパ・ピアスの短篇のように)。夢の中(過去)のヒューは、もはやヒュー自身でさえない。彼はスターリング・ノース(!)という謎の人物に「転換」してしまう。逆に言えば件の屋敷をS・ノースから譲り受けた所有者、ボリス・カーロス氏と、その娘たちがウラジミール(友人)の訪れを長い間、幽霊たちと共に待ち焦がれていたのはノースがヒュー本人に他ならないからである。《金木犀が花をつける頃》、ウラジミールの訪問を毎年待ち続ける少女リデル。その時が、まさにヒューたちが「夢の家」を発見したリアル・タイムの「今」(1982年秋)なのだった。
ヒューとノースは一種のタイム・パラドックスの関係にある。最初にノースが実在したと仮定しよう。彼は、どこからか連れて来た13〜4歳の少女、早逝を運命づけられた少女のために「夢」を創った。永遠に生きられるように少女を「夢」の中に閉じ込める。捩じ曲げられた時空の中でノースは「不死の人」にならなければならなかったし、その際に生じた亀裂がヒュー・バイダーベックという碧眼の主人公の「消滅」に繋がると言えよう。分からない読者のためにもう少し続けると、ヒューとノースは表裏一体であり、一方が実在すれば他方は存在し得ない。何故なら「夢」の中のヒューは美少女にとって「幽霊さん、かくれんぼしない?」であり、彼女がノースと一緒にいた時(100年以上前)にはヒューは未だ産まれていないのだから。ヒューは生と死、誕生と消滅を永遠に繰り返さなければならない。あるいは永久に回転し続けるヒューとノース、生と死の円環運動の中心に少女リデルの「生」──美しい夢が永久保存(真空パック?)されていると言うべきか!‥‥その動力がヒュー=ノースの「幻視エネルギー」(精神)だと、恐らく作者は言いたいのだろう。
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内田善美には、スペース・シャトルの2回目の打ち上げTV中継を視ていた日本人留学生の葉月に《あれも兵器だから‥‥》と発言させるだけの分別があるし、登場キャラに彼女のお気に入りの男優や監督や作家たちの名前──スターリング・ノース(作家?)、ジェイムズ・スチュワート(私立探偵)、アンドレイ・タルコフスキー(ウラジミール家の司書)、ロアルド・ダール(ヒューの助手)──を付けてしまうユーモアも兼ね備えている。『リデル』は常にウラジミールのナレーション(独白)や心理描写を中心に展開して行くために、ミステリアスなヒューの存在が謎として強調される。生身の人間と、やがて幽霊(不死)になる男との関係がホモ的であるかは兎も角、長年の友を失うウラジミールの寂寥感は切実だ。しかし、ヒューの「消滅」の近いことを予感した彼は19歳の夏にシカゴで永遠に逢い続けることに気づく。自分は通常の人間として死ぬしかないけれども、ヒューは過去のウラジミールに何度も初めて(!)出逢う。少女リデルの「幻影」(どっちが?)との邂逅、そしてウラジミールに幼年期や、それ以前の記憶が甦って来る場面、ヒューの記憶までも共有してしまうシーンは感動的ですらある。
『リデル』をファンタジーではなく、新しいゴシック・ロマン(少女マンガ)の創出として片付けることも出来るが、ヒューを「新人類」という進化のプロセスの予感と繋げたところが面白い。新しい種は最初、「奇形」(大衆レヴェルではミステリアスな存在)として登場するらしい。事実、ウラジミールはヒューを「畸形」(モンスター)と呼んでいた。ただし時空を捩じ曲げて「夢」を創り、揚げ句の果てに幽霊になってしまうヒュー=ノースの存在が人類の未来にとって一体どんな意味を持つのかと問われると首を捻って考え込まざるを得ないのだが‥‥。バスケット選手でもある長身のジョン・ピーター君(透視者)は《 "予感" は未来の記憶を針の穴から刹那以下の時間で見せられたようなもんです》と、17歳にしては老成た答え方をしている。
後半(3分の1)における作者の主眼点は、ヒューを彼の肉体もろとも如何に自然に消し去るかに注がれている。1人の人間を「殺す」のは容易いが「消滅」させるのは難しい!‥‥というわけで、そのために大脳生理学・心理学・遺伝子工学・分子生物学・エコロジー(環境破壊)・最新テクノロジー(宇宙開発)・超能力(ESP)・進化論‥‥が駆使されるのである。ヒューの「旅立ち」を見届けた後、ウラジミールも屋敷を後にする。何事もなかったように、彼の漂泊者としての旅が再び始まる‥‥。夢を見続けるために薬物自殺を図ったものの未遂に終わり、州立医療センターで今も眠り続けているミズリー生まれの女性(46歳)のエピソードが『リデル』の中に出て来る。《彼女の場合、脳波がまったく一定のパタンを示し、ほとんどレム睡眠──この〈夢をみる眠り〉の状態にあるんだ。おそらく、あの閉ざされたまぶたの向こうで10年以上も変わることなく同じ夢をみつづけている》。
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シリアス、ミステリアス、暗い‥‥などの形容詞が常に付き纏うR.E.M.だが、実際問題として、何を歌っているのか理解に苦しむという戸惑いがリスナー側になかったわけではない。確かにMichael Stipeのモゴモゴ声はモヤッとしたサウンドの中で泥濘化していたし、故意に分からないように歌っているという疑いも少なからずあった。一般的に難解といっても様々なレヴェルが内在する。Elizabeth Fraser(Cocteau Twins)のようにエコーの洪水の彼方へ意図的に後退〜曖昧化してしまうこともあるし、LKJのジャマイカ訛りの英語が聴き取り難い場合もあるだろう(ダブやスクラッチ、ヴォコーダ等で加工=変形されたり、早口ラップだったら尚更だ)。あるいは歌われている言語を母国語としない人が聴く時の困難さというレヴェルもあるだろう。洋楽の国内盤には原則として歌詞カードや対訳が付く習慣になっているけれども、もし歌い手が自分たちのメッセージや歌詞内容を正確に伝えたいと強く願うのなら、インナースリーヴやジャケット裏に予め「歌詞」を印刷しておくはずだ。
R.E.M.の特殊性は、仮に彼らの歌詞を完全に聴き取ることが出来たとしても、未だ五里霧中で、謎だらけの迷路の中に置き去りにされた迷子の狼狽えにも似ている。アンビギュイティの森に迷い込んでしまった時の不安と、暗鬱な空から舞い散る詩的なイメージの断片に翻弄されることで生じる眩暈‥‥。もっとも彼らの歌詞〜内容はアメリカ人の聴衆にも正しく理解されていないそうで(少し安心?)、その上でMichael Stipeはリスナー個人の自由な解釈を勧めている。《Lifes Rich Pageant》(I.R.S. 1986)は輪郭のクッキリした音像と共にMichael Stipeのヴォイスも前面に出て幾分か聴き取り易くなった。天地を180度回転させたPV(歌詞がスーパーされている!)が印象的な〈Fall On Me〉は《空が墜ちて来る / 墜ちて来ないで》というリフレインが強烈なポップ・ソングで、同時に暗示的なフレーズ「Buy the sky and sell the sky...」も繰り返される。「Don’t fall on me」という天動説もメタファを地動説に置き換えれば地球上の何かの危機を警告していることは明確だが、それが個人的な危機(失恋?)なのか、天変地異なのか、SF的妄想(宇宙人の侵略や太陽系の消滅)なのかは聴き手の想像力に委ねられている。
典型的なフォーク・ソングの〈Swan Swan H〉も南北戦争の奴隷解放を讃える「凱歌」にしては曲調が暗鬱で、「Swan, swan, hummingbird / Hurrah, we are all free now」という勝利のフレーズも逆に虚しさだけが空ろに谺する。頻出する数字の意味も〈Driver 8〉の「8」が謎だったように不明(死傷者数を象徴?)だし、南軍兵士の英雄譚も良く分からないけれど、「Swan, swan...」と対置された章句、「What noisy cats are we」が耳に痛い。インディアン語で「リヴァー」のことを指すらしい〈Cuyahoga〉では新大陸を横断する白人たちの光景と、その河で泳いだり踊ったりした先住民族の記憶が並行して語られて行く。明るいサザン・ロックであるのにも拘らず「カヤホーガ」の無惨な末路‥‥インナースリーヴに印刷された歌詞の断片やイラスト(落書き)は目的地を見失ったR.E.M.旅行者のための道標なのかもしれない。
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ハウリング音をも含めた力強いPeter Buckのギター、Don Gehmanをプロデューサに迎えることでパワーアップしたドラム音、全編に通奏するアクースティックな奥行き、驀進する重量級のスピード&ドライヴ感。オーヴァーラップする間奏のギターにゾクゾクさせられる〈Begin The Begin〉や、60年代のサイケデリックな香り漂う泰然とした〈The Flowers Of Guatemala〉──前者はテロリストについて言及しているらしいし、後者はアメリカの中南米への内政干渉に抗議しているという。アナログ盤の両面のラストを飾る2曲──1分半少々で終わってしまうマリアッチ風の〈Underneath The Bunker〉(土の中に生き埋め?‥‥くぐもった声)と、「ゴジラの渋谷来襲を警告する絶叫アナウンス」(日本語!)に続いて登場する〈Superman〉に顕著な、R.E.M.のユーモア性についても触れておこう。
R.E.M.はシリアスで暗いという大方の見解に対して、Michael Stipeは、《まあ、非常に微妙なユーモアが僕たちの歌にあると思うんだ》と応えている。《Lifes Rich Pageant》というアルバム・タイトルは『ピンク・パンサー』シリーズの中のワン・シーン──ピーター・セラーズ扮するクルーゾ警部がズブ濡れになりながらも気を取り直して呟く台詞、「It's all part of life's rich pageant.」に拠っているそうだ(『ピンクの豹』シリーズを何本か観ましたが、未だに該当場面を発見出来ていません。もし御存じの人がいらっしゃったら教えて下さい)。Bill Berryによると、アルバム・リリースの前年、メンバー間の内輪のジョークとして流行ってしまい、アンプのヒューズが飛んだり、誰かが足の爪先をブッつけた際に必ず、この言葉を吐いたという。
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- 予定していた記事が間に合わなかったので、〔archives〕シリーズを前倒ししました
- ヴァレンタイン(チョコレート)・スキンを作ってみました。見難い場合やリンク部分が知りたい時は Skin Switcher で色を変えてね^^;(2008/02/14)
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alice in moon-clock / sknynx / 130
- Artist: R.E.M.
- Label: EMI
- Date: 1998/06/30
- Media: Audio CD
- Songs: Begin the Begin / These Days / Fall on Me / Cuyahoga / Hyena / Underneath the Bunker / Flowers of Guatemala / I Believe / What If We Give It Away? / Just a Touch / Swan Swan H. / Superman / Tired Of Singing Trouble / Rotary Ten / Toys In The Attic / Just A Touch ...
とても面白くって、繰り返し読みました。星の時計のLiddell も、未読で、Lifes Rich Pageant も 持っていないので、内容は良く分からないのですが、両方とも読んだり聴いたりしたいと思いました。
王立宇宙軍という映画で、ロケットも兵器だから、というセリフがあったような記憶がありますが、星の時計のLiddell の方が先だったんですね。
R.E.M.は、Revealしか、聴いていなかったんですが、
Lifes Rich Pageantは、とっても面白そうですね。聴いてみます。
by miron (2008-02-16 10:33)
mironさん、コメントありがとう。
『星の時計のLiddell』はヒュー=ノースという輪廻(円環)の夢の中に
少女を閉じ込める話ですね。
ダイヤモンドの中に美少女を閉じ込めるマンディアルグの短篇みたいに^^
「Liddell」はアリス・リデルのことで、ミズリー生まれの女性の夢が
『鏡の国のアリス』の赤の王の夢に対応している。
アリス・リデル、スターリング・ノース‥‥内田善美は超ベタ子さん?
《Lifes Rich Pageant》はアナログ盤しか持っていないけれど、
ボーナス・トラックが6曲追加された輸入CDの方が、お得かと^^
by sknys (2008-02-16 12:48)