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壁街ロマン [b o o k s]



  • エッセイ・コンクールは、地区合同で毎年秋に行われ、年ごとに異なったテーマが与えられるのだが、そのとこのテーマは「私の友だち」というものだった。僕は四百字詰め原稿用紙五枚を用いて語りたいような「友だち」を、残念ながら一人として思いつけなかったので、うちで飼っている猫について書いた。ぼくとその年老いた雄猫がどんな風につきあい、生活を共にし、お互いの気持ちを──もちろんそこには限度はあるものの──伝え合っているかについて、その猫に関しては語るべきことが数多くあった。とても利口で個性的な猫だったから。おそらく審査員の中に猫好きの人が何人かいたのだろう。おおかたの猫好きの人は、他の猫好きの人に対して自然に好意や共感を抱くものだから。/ きみは母方の祖母について書いた。一人の孤独な老年の女性と、一人の孤独な少女の心の交流について。そこにつくり出されたささやかな、偽りのない価値観について。〔‥‥〕「あなたのおうちの猫って、とても素敵な猫みたいね」 / 「うん、すごく利口な猫なんだ」 とぼくは言う。きみは微笑む。
    村上 春樹 『街とその不確かな壁』


  • □ 街とその不確かな壁(新潮社 2023)村上 春樹
  • 6年ぶりの最新小説は中編として発表したものの、単行本に未収録だった 「街と、その不確かな壁」(1980)を大幅に拡張して書き直した三部構成の長編。第一部は『世界の終わりとハ ードボイルド・ワンダーランド』(1985) や『1Q84』(2009)と同じく、異なる2つのストーリが並行して交互に進行する(トマス・ピンチョンの『V.』(1963)も2人の主人公ベニー・プロフェイン(三人称視点)の現在とハーバート・ステンシルの過去の物語が交互に描かれる)。1つは「高校生エッセイ・コンクール」の表彰式で知り合った 「ぼく」 と 「きみ」 が恋に落ちる。16歳の少女が高い壁で囲まれた街のことを17歳の少年に語る。「きみ」 は 「影」 で、本当の自分は壁の街で暮らしているという。「きみ」 の話を聞いて興味を惹かれた 「ぼく」 は壁の街の地図を作成するが、「きみ」 は最後の手紙を遺して、音信不通になってしまう。もう1つのストーリは「影」を切り離して、壁に囲まれた街の図書館で〈古い夢〉を読む〈夢読み〉になった 「私」 と図書館に勤務する 「君」 の物語。「影」 は自ら川の溜まりに飛び込んで、壁に囲まれた街から脱出するが、「私」 は壁の街に留まる方を選ぶ。

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  • そんなわけで私は、館長室のデスクの上に積み上げられた手書きの書籍閲覧リストや貸し出しカードにひとつひとつ目を通し、この図書館の活動のあらましを頭に入れていった。とい っても、そのような調査作業によって何か有益な、目覚ましい情報が手に入れられたわけではなかった。閲覧されたり、貸し出されている書物は、おおかたがそのときどきのベストセラー本であり、そのほとんどは実用書か、気楽に読めるエンターテインメントだった。しかしたまにドストエフスキーやトマス・ピンチョン〔下線引用者〕やトーマス・マンや坂口安吾や森鴎外や谷崎潤一郎や大江健三郎の小説が借り出されていた。/ 町の大半の住民はそれほど熱心な読書家とは呼べないものの、中には(おそらく少数ではあるものの)この図書館に足を運ぶことを日常的な習慣とし、前向きで健康的な知的好奇心を有し、本格的な読書に勤しんでいる人々も存在する──というのが、手間のかかる作業の末に到達した結論だった。その比率が全国平均と比べて慶賀すべきものなのか、慨嘆すべきものなのか、そこまでは判断できない。私としてはそれを「今ここにある現実」として受け入れていくしかない。
    村上 春樹 『街とその不確かな壁』


  • 第二部は長年勤めた書籍取次会社を退職して、福島県***郡Z**町図書館の新館長に転職した40代半ばの「私」と前館長の子易辰也(幽霊)、司書の添田さん、「イエロー・サブマリン」 のヨットパーカを着た少年M**、名前のない「コーヒーショップ」の女店主をめぐる物語。Z**町の名士である子易辰也は紺色のベレー帽を被って、チェックの巻スカートを穿いている。代々造り酒屋を営んでいる素封家の長男で、東京の大学に進学して小説家を目指していたが、父親が脳梗塞で倒れたために帰郷して酒造業を継ぐ。東京で大使館の秘書をしていた知人の姪・観理と結婚するが、幼い一人息子・森を交通事故で失う。精神的に不安定になった妻も川に身投げし、意気消沈した夫は隠居して、酒造倉庫を改装して創立した町立図書館の館長に就任した。イエロー・サブマリンの少年M**は高校へは進学せず、毎日図書館に通って夥しい本を読破している。寡黙な少年(サヴァン症候群?)は生年月日から生まれた曜日を即座に言い当てるという特技を持つ。手書きした壁に囲まれた街の地図を添田さん経由で「私」に届けた後、ある夜、少年は家から煙のように消え去ってしまう。

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  • 書架の前で書籍の整理をしているとき、一人の少年に声をかけられた。午前十一時過ぎだった。私はベージュの丸首セーターに、オリーブグリーンのチノパンツという格好で、首からは図書館を職員であることを示すプラスティックのカードをさげていた。傷んだ本を書架から抜き出し、新しい書籍に取り替えていく作業だった。/ 少年は小柄で、十六歳か十七歳くらい、緑色のヨットパーカーに淡い色のブルージーンズ、黒いバスケットボール・シューズという格好だ。どれもかなり着古されており、また微妙にサイズが合っていない印象を与えていた。誰かのお下がりかもしれない。ヨットパーカーの正面には黄色い潜水艦の絵が描かれていた。ビートルズの「イエロー・サブマリン」だ。ジョン・レノンが昔かけていたような金属斑の丸い眼鏡は、彼のほっそりした顔に対してサイズが大きすぎるのか、少し斜めに傾いている。まるで一九六〇年代から間違えてここに紛れ込んできたみたいだ。
    村上 春樹 『街とその不確かな壁』


  • 第三部は第一部と同じ、再び高い壁に囲まれた街の物語に戻る。橋の向こう側にいる 「イエロー・サブマリン」 のヨットパーカを着た少年が 「私」 を見つめる。夜半、枕元に現われた少年は 「私」 と一体化して新たな〈夢読み〉となることを提案する。そして 「私」 は壁の街から元の世界へ還ることになる。落下する 「私」 を分身(影)が受け止めてくれることを信じて。Z**町図書館長に就任した第二部の 「私」 の方が 「影」 だったのだ。しかし、なぜ少年は 「私」 に代わって〈夢読み〉にならなければならないのか。この謎を解く鍵の1つは少年M**の母親が実は 「きみ」 ではないかという仮説だ。「きみ」 は 「影」 で、本当の自分は壁の街にいるという少女の 「夢想」 を真に受けて信じ込んだ少年の 「ぼく」 にフィクション(嘘)だと言い逸れ、気不味くなって自ら姿を消してしまう。その後、地方で幼稚園や学習塾などを経営する事業家と結婚して3人の男子を産む。「ぼく=私」 を心ならずも壁の街へ惹き込んでしまった「良心の呵責」を三男の息子が身代わりに背負って償うのは有り得なくない行動である。「きみ」 は壁に囲まれた街のことを寡黙な幼い息子に話していたのかもしれない。

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    • 《暗闇が降りた。それはなにより深く、どこまでも柔らかな暗闇だった》という 「ダ ーク・ファンタジー」 の結尾は意味深長です。「ハッピーエンド」 なのでしょうか?

    • 「1Q84 BOOK 3」 のような続編があるとすれば、「街とその不確かな壁」 の第四部は姿を消した少年M**の母親(きみ)と 「私」(ぼく)が再会することから始まる?

    • 図書館前館長・子易さんの妻が失踪した夜、彼女のベッドに残された葱2本の謎は?

    • 『1Q84』については〈1Q84年のリトル・ピープル 1〉〈2〉を参照して下さい
    • 「何曜日に生まれたの」(ABCテレビ 2023)の 「なんうま」 は少年M**のパクリ?

    • 調べてみたら、「僕」(村上春樹)も 「私」(sknys)も「苦しいことだらけ」の水曜日生まれでした。>﹏<。
    • 最初に「水曜日の子供」をかけます。Wednesday’s Child、水曜日生まれの子供は悲しみに満ちている。僕も実をいうと水曜日生まれです。それに加えて丑年の山羊座、血液A型という、あまりぱっとしない地味な生まれです。おかげでいろいろとひどい目にあいました。〔下線引用者〕まあ、楽しいことも少しはありましたけどね。全国の水曜日生まれのみなさん、けなげに頑張って生きてください。そのうちにいいこともあります、たぶん。
      村上 春樹「村上RADIO」

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    街とその不確かな壁

    街とその不確かな壁

    • 著者:村上 春樹
    • 出版社:新潮社
    • 発売日: 2023/04/13
    • メディア:単行本
    • 目次:第一部 / 第二部 / 第三部 / あとがき


    世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

    世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

    • 著者:村上 春樹
    • 出版社:新潮社
    • 発売日:2005/09/15
    • メディア:単行本
    • 目次:エレベーター、無音、肥満 / 金色の獣 / 雨合羽、やみくろ、洗い出し / 図書館 / 計算、進化、性欲 / 影 / 頭骨、ローレン・バコール、図書館 / 大佐 / 食欲、失意、レニングラード / 壁 / 着衣、西瓜、混沌 / 世界の終わりの地図 / フランクフルト、ドア、独立組織 / 森 / ウイスキー、拷問、ツルゲーネフ / 冬の到来 / 世界の終わり、チャーリー・パーカ...


    1Q84 BOOK 1

    1Q84 BOOK 1

    • 著者:村上 春樹
    • 出版社:新潮社
    • 発売日: 2009/05/29
    • メディア:単行本
    • 目次:見かけにだまされないように / ちょっとした別のアイデア / 変更されたいくつかの事実 / あなたがそれを望むのであれば / 専門的な技能と訓練が必要とされる職業 / 我々はかなり遠くまで行くのだろうか? / 蝶を起こさないようにとても静かに / 知らないところに行って知らない誰かに会う / 風景が変わり、ルールが変わった / 本物の血が流れる実...


    1Q84 BOOK 2

    1Q84 BOOK 2

    • 著者:村上 春樹
    • 出版社:新潮社
    • 発売日:2009/05/29
    • メディア:単行本
    • 目次:あれは世界でいちばん退屈な町だった / 魂のほかには何も持ち合わせていない / 生まれ方は選べないが、死に方は選べる / そんなことは望まない方がいいのかもしれない / 一匹のネズミが菜食主義の猫に出会う / 我々はとても長い腕を持っています / あなたがこれから足を踏み入れようとしているのは / そろそろ猫たちがやってくる時刻だ / 恩寵の...


    1Q84 BOOK 3

    1Q84 BOOK 3

    • 著者:村上 春樹
    • 出版社:新潮社
    • 発売日:2010/04/16
    • メディア:単行本
    • 目次:意識の遠い縁を蹴るもの / ひとりぼっちではあるけれど孤独ではない / みんなが獣の服を着て / オッカムの剃刀 / どれだけ息をひそめていても / 親指の疼きでそれとわかる / そちらに向かって歩いていく途中だ / このドアはなかなか悪くない / 出口が塞がれないうちに / ソリッドな証拠を集める / 理屈が通っていないし、親切心も不足している / 世界...

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