フィニの少女たち [a r t]
尾形 希和子 『レオノール・フィニ』
1985年に開催された〈フィニー展〉(横浜・そごう美術館)以来、実に20年振りの回顧展である。〈レオノール・フィニ展〉(渋谷・ザ・ミュージアム)は彼女の画業を年代順に6つのセクションに分けて展示、それも絵画だけではなく彼女のデザインした衣裳や仮面などを含めた100余点で構成されている。まずは挨拶代わりに〈赤いターバンの自画像〉(1938)が来場者をお出迎え。1.トリエステから──レオノール・フィニ(Leonor Fini 1907ー1996)は南米アルゼンチンのブエノスアイレス生まれだが、1年足らずで母親はフィニを連れて故郷イタリアのトリエステへ逃げ帰る(父親はナポリ出身のアルゼンチン3世)。2.シュルレアリスム──1925年(17歳)、1年間のミラノ滞在中に画家としてデビュー。1932年(24歳)、ミュンヘン〜パリへ出てマックス・エルンストやマンディアルグの知遇を得た。この時代のフィニの絵画が最もフィニらしい妖しい魔力に溢れている。しかし「個人蔵」の場合、コレクターが作品を外に出したがらないのが玉に瑕‥‥フィニ自身も前展の際に残念がっていたらしいけれど。
*
黒い長椅子に横たわっている乳白色のワンピース姿の女性、赤茶のクッション、灰色のスプーン〜スコップ状の物体が2つ置かれている〈横たわる女〉(1925)。ピンク色のドアの鍵穴を覗き見る女、棒を手にした薄黄色のワンピ女という〈好奇心の強い女 / 眠れない夜〉(1935ー36)は「荒野に置かれた扉」というダリ〜ドロテア・タニング風のデペイズマンによるシュルレアリスム絵画の定番モチーフである。白衣の男性の髪を手刀で手櫛する(切る?)赤い服と黄色い長スカートの女性‥‥男女2人が共に目を瞑っている〈手術 1〉(1939)。3人の老婆が黒髪のカツラを外し、ヌードになって、赤いストッキングを脱ぐ‥‥まるで脱皮しているかのような〈『アポテオーズ』の幕間〉(1938ー39)。今展のポスター、チラシ、チケット等にも使われている〈守護者スフィンクス〉(1946)は意外と小品──台座の上で微睡む半人半獣の牝スフィンクス、台座の裂け目から伸びた黒い木の枝に引っ掛かっているピンク色の布、古文書、三角柱、割れた卵の殻‥‥。
白い翼の生えた白髪鬼と化したフィニ自身が骸骨(人体模型)の躰となって紫のマントを両手で持つ、どこかコミカルな〈骸骨の天使〉(1949)。白いモヘアの上着とロングスカート、青緑の睛、細い胴の金髪女性が木の枝を楽器のように掲げ持つ〈妖精、ジョイ・ブラウンの肖像〉(1955)。女死神(?)の足許にもあった動物の頭蓋骨や巻貝、葉っぱのような薄い骨にピンク色の昼顔の花と蔓が這い絡む〈2つの頭蓋骨〉(1950)。屋根の壊れた神殿の中の「水浴場」という同一構図の2点──水溜りに鳥の羽が落ちている夜の図と、水を張ったプールの中や周りに9人の着衣の女性がポール・デルヴォ風に佇む昼の図を対比させた〈移りゆく日々1&2〉(1938)。タレ目タレ眉男の小品〈ジャン・ジュネの肖像〉(1958)。よく似た3人の若者がフィニを中央に横並びのマロット風に描かれた、背後の緑色と褐色の肌の対比が色鮮やかな〈コットとセルジオと私〉(1955)。両腕に黄金色のペルシャ猫を抱えた〈ナヴァール・トゥスオン妃の肖像〉(1952)。11匹の猫ちゃんの生態を生き生きと描き分けた〈猫たち〉(1952)。
3.鉱物の時代──1939年フランスは第2次大戦に参戦する。フィニはエルンスト&キャリントン夫妻と共に南下、南仏モンテカルロからローマへ逃れた。戦後パリに舞い戻った彼女は〈フェニックスを守る女〉(1954)のように、スキンヘッドの女が卵を掌に捧げ持ったり、瞑想したりする黙示録的な作品を発表する。50年代の終わりから60年代半ばに掛け、今までのツルツルしたマティエールから一変してザラザラした質感のアンフォルメルやタシムスに影響された絵画を制作。緑に覆われた森や青い沼の中で、骨格と金属が合体〜デフォルメした異形のサイボーグみたいなグロテスクな人体が象眼〜デカルコマニーされたような半抽象の異世界を描き出す。貝殻モザイク風の〈ドラゴンの番人〉(1958)。青い海に青い人物が横たわる〈息づく影〉(1962)。半抽象の人物がH・R・ギーガー風にウス気味悪い〈誕生地〉(1958)。デフォルメしたガイコツが青をバックに直立している〈特権的地位〉(1955)。金属化したガイコツ男女が愛し合う〈マンドリリア〉(1959)‥‥。デカルコマニー風の鉱物世界に手にボールを持った恍惚状態の少女が閉じ込められた〈ツルボラン〉(1965)だけが先駆的に艶かしい。
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4.エロティシズム──戦後、友人と一緒に訪れたコルシカ島で、フィニは美しい廃墟(修道院の跡)を発見する。一目で気に入った彼女が別荘として夏のヴァカンスに利用するようになってから作風が変わった。シュルレアリスム時代と共に、もう1人のフィニを代表するパステルタッチの明るい色彩に溢れた作品群である。少女たちはコーコツの表情を浮かべ、あられもない半裸姿で性的な痴態を晒し、レズビアン風の行為にまで及ぶ。目を閉じ口を半開きにした全裸少女が両腕を後ろに回し両脚を開き、衣服(スカート?)を膝まで下ろしている〈真珠〉(1978)。左に「鉱物の時代」を想わせる緑をバックに花に染まったネコ娘、右に肥った猫を抱く赤毛のヌード女を同一画面上に併置した〈2つの不変性〉(1967ー68)。3人の女が四角い木枠で首を拘束される〈首枷の刑〉(1984)。同性愛者風の女2人が股間を開く〈あいだ〉(1967)。2人の女性が車内個室で向き合って坐っている〈旅の道すがら〉(1967)は「列車シリーズ」の1点である。
全裸の女教師が丸テーブル上の大きな黄色い花の断面模型を前に、黒い衣裳の女生徒に性教育を施す〈植物学の授業〉(1974)。3人のヌード娘がピンク色の蓮の花に囲まれて水遊びする〈沐浴する女たち〉(1972)。木桶の中に入った女を2人の女が押し転がしている〈本当の遊び〉(1973)。日本の着物をバックに真珠や宝石で飾った大きなターバンを巻いたヌード女性が(下半身を着物で覆って)坐っているエキゾチックな色違い2ヴァージョン〈旅からの帰還1&2〉(1982)。4枚折りの屏風の表に4人の若いヌード娘、その裏に4人の骸骨女をシニカルに対比させたシルクスクリーン〈女性のメタモルフォーゼ〉(1973)。5.シアター──フィニのデザインした宝石や家具、バレエやオペラで使われた衣裳や舞台美術、各種習作、オブジェ、仮面、写真(〈白梟〉の仮面を付けて仮装したフィニ)などをコレクション・展示したコーナー。
6.円熟期──三たびフィニの描く絵(色彩・テーマ)に変化が訪れる。コルシカ島の明かるい光、花や植物の繁茂する真夏から一転‥‥70年代後半から闇の中を想わせる暗い沈んだ世界、80年代からグロテスクな生物が息づくようになる。2人の女の影絵を眺める異形の人物〈夢から醒めても〉(1978)。闇の中の演劇を観る4人の女性のカラフルな髪型が目立つ〈見世物〉(1986)。赤い衣裳を試着する女と跪く仕立て屋、3人の人物が噂する〈3度めの試着〉(1989)。逆に女性の躰に巻きついた半透明の布を2人の男女が剥ぎ取る〈解放されたカリアティッド〉(1986)。ヌード女2人が背中合わせの2脚の椅子に坐る対称的構図の〈強制執行〉(1985)。淡いピンクの光の中で向かい合う男女、壁に凭れて坐る女を奥に配した〈夜明けの影に〉(1984)。真紅をバックに5人の魔女が黒いホネ箒に跨がる〈魔法使いの女たち〉(1959)。〈パリリオ〉〈ティッツイオ〉〈ゴルゴン〉〈メリタ〉(1988)という名前を冠した作品を挙げるまでもなく晩年の人物たちは、少女のまま老成化した侏儒やフリークス、サーカス団のピエロを想わせる不気味さを秘めている。
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フィニ自身は兎も角、彼女の絵の中に描かれた少女たちは時間の流れに逆らって幼くなって行くように感じる。初期シュルレアリスムの女性や戦後スキンヘッドの卵形の女、パステル調のレズ少女‥‥後期の老成した侏儒のような奇形幼女。「鉱物の時代」の半機械化した妖しい女体はダナ・ハラウェイ女史の宣言した「サイボーグ・フェミニズム」を想わせなくもない。「少女性」と「サイボーグ」と「レズビアン」の3者が結び付くと、どこか近未来的な「セックスレス」の非生産性‥‥現代の少子化にも繋がる「愛の不毛」に辿り着く。精子提供者でしかない男に出番はないし、死の恐怖を前にして彼女たちは少女のまま老成する。金井美恵子は《フィニの少女たち、とりわけ古代の巫女のように見える毛髪のない丸い顔をした年齢不詳の少女たちを私は好きなのだけれど(‥‥)》と書いた後で、巫女たちに近づくことの危険性を指摘するのだが、それは彼女自身が「少女たちの王国」の住人になることヘの怖れではないのか。
フィニは大の猫好きで飛行機嫌い。日本に興味があったけれど、生前に1度も来日することはなかった(彼女の知っている数少ない日本語の1つが「ネコ」だとか)。フィニ亡き後の自宅、パリ1区、パレ・ロワイヤル庭園の裏手のアパルトマン(3〜4階)の各部屋とアトリエをワンカット(手持ちカメラ)で蜿蜒と長回し続けるヴィデオ映像を館内の一角で流していた。壁に掛かっている「絵画」、暖炉の上の猫グッズ、アール・ヌーヴォ調のライト・スタンド、生花や観葉植物、画集、ソファーと椅子‥‥14匹の猫ちゃんが不在の女主人に代って来客を出迎える。その猫たちが何とも形容し難い、物憂げな表情を浮かべていた。変身仮装趣味のフィニは美しいペルシャ猫に姿を変えて生き長らえているのかもしれない。レメディオス・ヴァロが「ハート形の顔の女」、レオノーラ・キャリントンが「狼の眷族」なら、レオノール・フィニは「牝猫=スフィンクス」の化身に他ならない。
《どの展覧会のカタログを見ても、あるいは彼女に関するモノグラフィのたぐいを調べても、レオノール・フィニの年齢は正確には分らない》と澁澤龍彦が『幻想の彼方へ』(美術出版社 1976)の中で書いているように、フィニの生年は謎に包まれていた。『幻想の画廊から』(1967)や『幻想の肖像』(1975)など、先行するテクストでは「1908年、南米のブエノス・アイレス生まれ」としていたのに、前言を翻したのは恐らくその間に1908年説を否定する「事実」が公表されたせいなのかもしれない。しかし、彼女の死後9年を経て開催された本展の年譜(1907ー1996)を信用すれば、『Leonor Fini』(講談社 1993)の1918年説は、フィニに「美猫顔ね」と褒められて満更でも無さそうな俳優の中尾彬らが生前の彼女自身に直接会って確認したものだとしても、《1918年──ブエノスアイレスに生まれる。1932年頃(14歳)──パリに出て、アンジュ河岸にあるホテルに部屋を借り、油絵を描き始める》という「年譜」には少々無理がある。14歳と言えば、未だあどけない女子中学生ではないか!‥‥結局11歳もサバを読んでいたわけだが、本当の年齢なんかどうでも良いんじゃないの、と嘯くフィニ婆さんの低音声が聴こえてくるようだ。
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『レオノール・フィニ ── 境界を侵犯する新しい種』(東信堂 2006)は日本人女性によって書かれた初のフィニ本である。著者・尾形希和子は評伝と作品論、「レオノール・フィニの生涯」と「作品世界」の2部構成で、レオノール・フィニという「新しい種」を読み解く。「生涯」では男性主体のシュルレアリズムに与しない自律性、エルンストやマンディアルグとの恋人関係、2人の男性──スタニスラオ・レプリとコンスタンティン・ジュレンスキーとの共同生活などが綴られる。「作品世界」では、レオノーラ・キャリントンやフリーダ・カーロなど女性シュルレアリストたちとの相違、「越境」(性差の境界、動物、植物、鉱物、異界との境界)、「エロス」(エロスとタナトス、遊戯とエロス)、「自律的女性像」(自画像、ダブル──分身、女性の肖像)、「女神、女司祭としての女性」「魔女としての女性」というフェミニズム的な視点からフィニの絵画の重層・多面性を明らかにする。豊富な図版、資料、注、装幀(〈比類なきナルシス〉の表紙カヴァ)‥‥も含めて、丁寧に仕立てられたフィニの衣裳を想わせる。
*
- 画像を載せていないので、ラストまで読み通すのは辛いかもしれません。 公式サイト「Leonor Fini」を参照するか、 せめて最後の2段落(ネコ好き&年齢詐称!)だけでも読んで下さい
- 『夢先案内猫』は〈猫のゆりかご2〉で紹介します
- 『レオノール・フィニ』の紹介文を加筆しました(2007/08/24)
girls of fini / sknynx / 009
- 著者:レオノール・フィニ
- 出版社:講談社
- 発売日:1993/08/20
- メディア:大型本
- 目次:作品 / 魔女と天女の間に猫がいた / 画家のいる場所 /「画家」と「作品」の近親相姦 / 参考作品 / 作品解説
- 著者:尾形 希和子
- 出版社:東信堂
- 発売日:2006/08/31
- メディア:単行本
- 目次:レオノール・フィニの生涯(序 / 幼少期 / ミラノ時代 / パリへ / 戦時中、ローマ / 戦後から1970年代まで / 1980年以降 / 結び)/ レオノール・フィニの作品世界(シュレアリスム運動における女性芸術家たち / フィニの絵画世界)/ 注 / 文献一覧 / 略年譜
『宇宙少年ソラン』のチャッピーだって云ってたのに
“背後霊”扱いしましたね~彡(((((  ̄д ̄)こんなカンジ?
ご意見番でも博覧強記でもありませんよ?ただの漫画好き(しかも昔の)
という判断が何故下されぬ?『綿の国星』のこと書いただけなのに?
私からすればsknysサンの方が余程物識りに思えます。
レオノール・フィニも存じませんし、挙げられた本も未読の物ばかり。
Blogを読むことで世界を広げられて感謝しております。
柳瀬訳の“イボダラーケ・ショッパー”に言及しておいででしたね。
中央競馬会がG1の度にレーシングプログラムに載せる馬名紹介欄を彼が担当しておりまして、そのアナグラムの無理矢理さ、こじつけの強引さには、確かに多言語に通ずる博識は見て取れても尚それ以上の脱力感を否めません。機会がありましたら御覧になるも一興かと。
私はとりたてて美少年好きではありませんが「摩利くんも新吾くんも若葉も扇子姉上も私好みの美女美少年みな私のものにしたいのです。なぜ私は全能のローマ皇帝に生まれなかったのでしょう?」の白鳥の騎士サンと意見を同じくする者ではあります(例によって記憶のみ。誤記許されたし)
監禁皇子じゃあるまいし印刷物と映像と、あとは通りすがりにウットリ見送るぐらいは許されましょう。
(通りすがりの場合美少女は稀だし美少年は皆無に近いが偶に品の良いおばあさまに見惚れる幸運に恵まれることはありますね)
木原作品を美少年物として見た事は、云われて初めて考えて、1度もない事に気づきました。麗しいキャラクター勢揃いなのに何故かと問われれば、たぶんキャラより先に物語を見ているからでしょう。
好きなのは週刊マーガレット時代から、むしろ読み切りの短編でした。
『ヴェッテンヴェルク・ヴァンカランゲン』シリーズも『緑紅最前線』以前の1話完結形式で発表された物に愛着があります『青嵐』『頭文字』『題知らず』『夕日にぎんなん五目飯』などなど。でも『銀河荘なの!』『天まであがれ』なんか今読んでも大泣きするでしょうね。B00K0FF行こうかしら?
博覧強記などというコトバは澁澤龍彦氏や石川淳翁せめて荒俣先生クラスに用いて下さいませ。
by けろろ軍曹 (2006-01-25 18:26)
・けろろ軍曹さん、こんばんは。
またまた「逆鱗」に触れてしまったようですね。
【博覧強記】広く古今の書物を読んで、よく記憶していること──と、
新潮国語辞典にあります。
たとえ何千冊読んでいても、
読んだ内容を忘れてしまっては「博覧」とは言えません。
「記憶力に優れている」という後半の意味で使ったのですが、
お気を悪くなさったのなら謝ります。
「少女マンガ強記」「漫画ご意見番」で宜しいですか?
ナルニア布教に忙しそうだったので、油断していました(地獄耳なのね)。
今夜の「しまリンゴ」は忘れないように記憶しておきます。
by sknys (2006-01-25 21:49)
〈THE・少女マンガ!〉(2006/1/25 木原敏江の世界)を視ました。
Doziサマ老けたなぁ‥‥30kダイエットに成功した笙野頼子みたい。
ラテ欄は「摩利と新吾」となっていたけれど
「夢の碑」(雪紅皇子)の方がメインでした。
作者インタヴュー、生い立ち(写真)、再現ドラマ、
父親が事業に失敗して貧しかった学生時代、図書室から本を借りて読書、
詩の世界──立原道造に傾倒‥‥。
高校卒業後、1年間のOL生活(銀行員)を経て、「マーガレット」に投稿。
「こっちを向いてママ!」(1969)で少女マンガ家デビューする。
「摩利と新吾」が立原道造的世界なら、「夢の碑」はダークサイドな世界
(デカダン&耽美)を描いたと、自ら作品分析。
ポオ(詩)やハリー・クラーク、ビアズレー(イラスト画)、
ヨーロッパ旅行中にギュスターヴ・モローの〈サロメ〉を観る‥‥
二の宮の「首」の元ネタが「聖ヨハネの首」だったとは、
今まで気づきませんでした。
実は〈フィニの少女たち〉の後に〈ギュスターヴ・モロー展〉の記事
(サイド欄の〈モローの発明〉)を用意していたので2度ビックリ!‥‥
UPするのは数カ月先の予定でしたが、
けろろサンのために前倒ししようかなと思います。
by sknys (2006-01-26 13:51)
『雪紅皇子』『渕となりぬ』は公認ファンサイトでも人気上位なのでネームヴァリュウのある『摩利と新吾』から変更になったのかもしれませんね。『夢の碑』もシリーズとして見れば長く続いた作品ですし。
>miyucoさんはドン引きかと想いますが(けろろ軍曹は舌舐めずり?)。
謎です、何故そう思われるのか (´~`ヾ)私は耽美も“お”耽美も(決して嫌いではありませんが)特に愛好する方ではないのですが…私の文章にはナニカそんな匂いがするのでしょうかφ(´∀`
ああ、逆鱗になぞ触れてやしませんよ、龍ならぬ身にそんなモノあろうはずもなく(^^)ただ単純に不思議なだけです。
>二の宮の「首」の元ネタが「聖ヨハネの首」だったとは
『ベルンシュタイン』を読んだ時はスグ連想が働きましたが Σd(・∀・*)
「ヨカナアンわたしはおまえにくちづけするよ」
オスカー・ワイルドの『サロメ』の、日本語に翻訳してすら快い台詞の数々。
一度声に出して読むことをお奨めします。とっても気持ちが好いこと保証付き。(原語だとどんな感じなのでしょうね +゚*。:゚+(人*´∀`)ウットリ+゚:。*゚+. )
by けろろ軍曹 (2006-01-28 00:39)
女性が〈少女マンガ〉の一体どこに惹かれて読んでいるのか判らずに、
女性読者=耽美&美少年好き、
というステロタイプな先入観に囚われていたのかもしれません。
(けろろ軍曹は舌舐めずり?)──という表現は、その方が
キャラ(イメージ)として面白いのでは‥‥という無責任な判断で、
けろろサン(本人)が「美少年好き」かどうかは関係ありません
(レイザーラモンが本当にHGなのかどうかは、どうでも良いことです)。
今、けろろサンが悩んでおられるHNの件も、
一人歩きするネーム・イメージの弊害についてでしょう。
極論すると《「相手は私をどう思おうと考えようと、相手の自由なんです。
ですから、誤解は解く術もありません》という
〈樹村みのりの世界〉になってしまいますが‥‥。
Doziサマはギュスターヴ・モローの「原画」に衝撃を受けたのでしょう。
《モローの主眼はオリンポスの神々や歴史上の英雄や詩人たちを描くことではなかった。彼らの内面に潜む目に見えないものを象徴→抽象化することだった。》──〈モローの発明〉
それだけ、彼女のダークサイド世界(耽美・デカダン)が
暗く深かった、ということだと思います。
「ベルンシュタイン」を読んだ時の記憶が全部トンじゃってる訳です。
再読すれば思い出すのかもしれませんが‥‥恥ずかしい!
「(博覧)強記」とは、そういう意味です。
けろろサンはHNや文章から受けるイメージより、真面目な方なのでしょう。
でも、そこまでは実際に付き合ってみないと、なかなか解らない(笑)。
by sknys (2006-01-28 17:10)
>女性が〈少女マンガ〉の一体どこに惹かれて読んでいるのか判らずに、
って、エッ(゚Д゚;)?エーと(・д・。)それってつまりスニーク・シンクス嬢ぢゃなくて
スニーク・シンクス氏ってコト??ヽ(´Д`)ノ (Д`ノ) ヽ( )ノ (ヽ´Д)
そ、そうでしたか私はてっきり…『グインサーガ』のスニだって♀だったし(*_*)
云われてみればソランは宇宙 “少年”… m(_ _;)m お見逸れしましたッ!!
by けろろ軍曹 (2006-01-29 01:17)
そういう意味の「誤解」を解くつもりじゃなかったんですが‥‥。
でも、これで結果的に良かったのかな?
容姿・顔立ち(美少年タイプ !?)から、よく間違われるので慣れています。
顔なし、文章だけで、というのは初めてですけれど。
ちなみに、学生時代のニックネームは自称ジャック(←忍海爵)でした。
しかし、2人揃って「誤解」されていたということは、
読者の多くも同じように錯誤している可能性が高い。
今さら1人1人訊いて回る訳にもいかないし、どうしよう?
いっそのこと「誤解」されたままにしておこうかな?‥‥
その方が面白そうだし‥‥。
by sknys (2006-01-29 20:35)
先日フジTVで『怪~天守物語』なるアニメーションを観てガッカリしました(『ハチミツとクローバー』の放送された『ノイタミナ』という時間枠です)
漫画化した波津彬子サンの絵柄とは比ぶべくもないキャラクターデザインもさることながら、戯曲として書かれた泉鏡花の台詞の少しも活かされていない脚本。
言文一致の嚆矢の一人尾崎紅葉の弟子たる鏡花は、口語で著してもその身内に文語の響きを宿してい、それが舞台に乗った時に美しい音として観客に届く事を知っていました。
人と異形の者の恋の粗筋だけをなぞっても、それはただの説明、紹介でしかなく美は伝わりません。
木原氏がインタビューに応え「詩だけではダメだし、絵だけでもダメだし、ましてや文だけでも私にとってはだめだった」
と述べた様な思いを制作者が持っていない事のよく解る出来で残念でした。
国辱とまで酷評する人のある映画『SAYURI』でしたが電気普及以前の日常の暗さだけはよく表現されていました。
題の通り、主に白鷺城の天守で展開される物語は、妖しくも美しいモノ達を包む闇があってこそ際立つのです。
陰翳礼賛の心のない白々とした画面にもまた美は見出せません。
『夢の碑』に描かれた、原画を縁取る闇、表されたダークサイド。
意味より先に音が、光より先に闇が、まずあったのだと私達は知っています。
開国と敗戦で、古くからの文化という根から切り離されてしまった私達は、仮令その先に繚乱の花を咲かせたとしても所詮は活けられた枝に過ぎません。
だからこそ切り口は元の大樹を求めて樹液を滴らせずにおかないのです。
香気馥郁たるその雫は、持つとも気づかず持っている遠い記憶に、慈雨の如く注がれ私達の渇きを癒すでしょう。
木原氏の醸す甘露に闇は溶け、私達の心に滲み込み、音律を生んで美となり沈殿してゆくのです。
揺れる葉は陽を目指して伸び、それを支えるために根は一層深く地中の闇へ潜り滋養に満ちた土を食む。
木原、という言葉の謂いは、図らずも氏の作品世界の風景そのものでありました。
爽やかな未だ酸い硬い実を、貴腐と熟した甘い実を、鈴生りに樹つ、直ぐな木。
私達は、その木陰のかがやくのはらで幸福に物語を紐解くのです。
by けろろ軍曹 (2006-02-11 01:22)
追記
首は、モロー、ビアズレーと転がり、二の宮を経て、白鷺城の天守へ。
舌長姥にベロベロ舐め回されて面変わりしてしまうかも。
坂口安吾『桜の森の満開の下』でも(ホントウに見たらサゾ気色悪いはずが)脳裏には、腐れた首を弄ぶ姫君が可憐に映り、恐怖は舞い狂う桜に巻かれて、あとには空っぽの闇だけが残る。空ろな、けれど虚しくはない美だけが。
“桜の森にはだあれもいない”
by けろろ軍曹 (2006-02-11 10:33)
波津彬子さんって、花郁悠紀子の実妹ですよね。
お姉さんの急逝後、陰ながら応援していましたが、
作風もテーマも違うのに、つい花郁さんの面影を重ねてしまいます。
お姉さんに比べて、和風テイスト+やや耽美派という感じでしょうか。
「オレンジとレモン」の唄も実は最期に首がチョン斬られます。
次の記事が〈モロ発〉だと2回続けて「首」が飛んでしまう(苦笑)。
〈猫ゆり2〉の方を先にUPしたいのですが、
けろろサマの厳しい目に晒されるかと思うだけで、躊躇しちゃいます。
〈ムカ手〉の方にもコメント付けて下さい。
by sknys (2006-02-11 19:32)
波津彬子『天守物語』Yahooコミックで(途中まで)無料公開中。
http://comics.yahoo.co.jp/10days/hatuakik01/kixyouka01/shoshi/shoshi_0001.html
タイトルは『鏡花夢幻』
でもジャンルの『ミステリー、サスペンス』はチョット違うんじゃあ?
by スゥ。 (2006-08-25 14:52)
スウ。さん、コメントありがとう。
《Macintoshでは利用できません。Firefoxでは利用できません》
‥‥「YAHOO!コミック」の動作環境はW門前払いでした 。
穴だらけのエクソプローラって、そんなに使い易いのか?
Macユーザの森博嗣は「IEは美しくない。Outlookだけは絶対使うな!」と、
自分の子供たちに言っていますが。
by sknys (2006-08-25 23:04)
[壁]ノ_・。) ごめんなさい。そんなコトとは露知らず…
PC、個人所有でなくファミリーユースなもので (;O;)
デジタルデバイスゥ。はMacintosh購入を希望したのですが、会社や学校で使ってるものと同じが良いという意見が通りまして (ノω・、)
とは云え スゥ。はMacの在り方考え方に共感したのであって、実際のところメールとネットしかできないので、次期買い替え時にも説得力のある主張を展開するコトは困難かと(--,)
>穴だらけのエクソプローラって、そんなに使い易いのか?
って段階じゃないんだもの@(/ェ・o)@
sknysサンのカスタマイズについての記事なんてナニが書かれてるのかも分んないし、それどころかBlog開設にすら二の足踏んでるじょうたいですものねえ。
いつまでもmiyucoサンんとこに寄宿してるのも御迷惑とは思ってるんですが…
by デジタルデバイスゥ。 (2006-08-26 20:29)
デジタルデバイスゥ。さんに非があるわけではありません。
マイクロソフトや、窓族だけしか相手にしない独善的なポータルサイトが
嫌いなだけです。
ちょっとストレスが溜まっていていたのかもしれません。
s-book.com(http://www.s-book.com/)では『雪紅皇子』を
見開き2頁だけ見れるし、
米Amazon.comでも『Grapefruit』の中身をMac+Firefoxで読めます。
スウ姐さんがソネ風呂に入ったら、一緒に混浴しちゃうかも^^;
by sknys (2006-08-27 01:37)