バルテュスは、自分の属する元来の係累が何であったかを隠したことはない。『ミツ』に始まり、1935年の《猫たちの王》という肖像画(自画像)や1949年のレストラン・ラ・メディテラネの《地中海の猫》の室内看板にいたるまで、バルテュスは本性は猫であることを常に主張してきた。小さいときから、猫だったのだ。小さな猫たちは学校なんかにはゆかない。両親から大事なこと、獲物をつかまえること、ものを考えること、走ること、体を伸ばすことを教えてもらうのだ。画家で美術史家であったバルテュスのお父さんや画家であったお母さんや家族の友人の画家たちがその仔猫に自分たちの芸を伝授してくれることになる。猫たちは独学である。美術学校なんかにはゆかない。彼らはひとりで学習し、ものを観察し、学び、実験するのである。若いバルテュスはルーブル美術館、そしてイタリアに足を運び、模写をした。どこにいても学ぶ。いつまでも学ぶことになる。猫たちは歩いた跡を消すことが上手だ。バルテュスは巨匠たちに学び、その養分を自分の宝にしていった。
クロード・ロワ 「猫少年から猫の王様に」
⃞ ミツ(Mitsou 1921)バルテュス少年(11歳)がネコとの出会いから別れまでを描いた40枚のインク画。スイス・ニヨンの城でベンチに座っている1匹のネコを見つけたバルデュスは旅先から船や電車を乗り継いで一緒に家へ連れて帰る。コレットの小説「踊り子ミツ」(1919)から ミツ(光)と名づけられた白黒ネコは家族や使用人にも可愛がられ、少年と階段で遊んだり、首に紐をつけて散歩したり‥‥。引っ越した新しい家にも慣れ、父親の絵のモデルにもなった。クリスマスの夜、綺麗に飾られたツリーを見つめる少年の家族たちとミツ。でも蜜月は長く続かない。ベッドで一緒に眠っていたミツが翌朝行方不明になってしまったのだ。ロウソクを灯して暗い地下室や庭や街中を探したが見つからなかった。愛猫との突然の別れ。早すぎる喪失の物語。悲嘆に暮れたバルテュス少年は描かずにいられなかったのだろう。リルケは言葉のない絵本
『ミツ』(河出書房新社 2011)の序文で「これが物語だ。画家の方が私より上手に語ってくれている」と書いている。
⃞ 猫たちの王(The King of Cats 1935)27歳の自画像に付けるタイトルとしては風変わりである。右手を腰に当てて不自然なポーズを取る男性(バルテュス)の右脚に縞猫が頭をスリスリしている。ネコの匂いつけ行為は自分のテリトリや所有物であることを意味しているが、右側のスツールの上に調教用の鞭が置かれ、題名を記した小さなカンヴァスが立て掛けられているように、若い男はネコを手懐ける飼主(王)として描かれている。男性とネコの主従関係が揺らいで曖昧化する。男の方が従者で、擦り寄って来るネコこそがレオノール・フィニの
『夢先案内猫』に登場するような「猫たちの王」なのではないかとさえ思えてしまう。バルテュスの描く猫は可愛くない。虚ろな目は幽霊のように薄気味悪くもある。固有のネコではなく、ネコという集団的無意識の顕現のように見える。彼らはニヨン城のミツであり、ミュゾット館のミノであり、街の野良ネコであり、あなたの飼っているネコでもあるのだ。
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⃞ 鏡の中のアリス(Alice in the Mirror 1933)白い下着から左の乳房を露わにし、左足を椅子の上に乗せて性器を見せつけて髪を梳かす女性像。絵のモデルは兄ピエール・クロソフスキーの学友ピエール・レリスの妻ベティ。ルイス・キャロルの同名ファンタジーから採った作品名から、モデルと対面せずに鏡に映った女性の姿を描いていることが分かる。鑑賞者の目を惹きつけるのは露出した乳房でも性器でもなく、アリス(モデル)の「白目」ではないかしら。鏡を通り抜けて逆さまの世界へ行った少女アリスのように、鏡の中のモデルの目も反転して白目を剥いているのだろうか。1934年4月、パリのピエール画廊で開かれたバルテュス初の個展に出品された7点のタブローの1つで、画廊の奥の控え室にカーテンで隠されて展示されていたという
〈ギターのレッスン〉(1934)と同じく、敢えてスキャンダルになること、パリで話題になって有名になることを狙った作品なのかもしれない。
⃞ キャシーの化粧(Cathy at her Toilette 1933)初個展に出品された〈キャシーの化粧〉はエミリー・ブロンテの『嵐が丘』のために制作した挿絵(ペン画)の1枚、
「じゃ、どうして絹の服なんか着ているんだい?」(第8章)の油彩画ヴァージョン。バルテュスは自分自身をヒースクリフに、恋い焦がれていたアントワネット(モデル)を令嬢キャシーに投影させて描いている。絹の上衣を羽織った半裸のキャシーは明後日の方向を見上げ、腰掛けに左足を組んで座っているヒースは対照的に憂鬱そうに見える。右端の明るい色調のキャシーと左の暗いヒーストのコントラスト。乖離する2人の間にキャシーの髪を整えている女中がコミカルに描かれている。クロード・ロワは「情熱による孤独、共鳴する精神の間に生じた断続、愛の砂漠といったものの「写実的」な寓意画をこの絵に見ることは、解釈病や三文哲学やちゃちな心理学の誘惑に負けてしまったことになるのだろうか」と
『評伝 バルテュス』(河出書房新社 2014)の中で書いている。
⃞ 夢見るテレーズ(Therese Dreaming 1938)半袖シャツから伸びた両手を頭の上で組んで左を向き、長椅子に座る少女テレーズ。左膝を立てて椅子の上に足を乗せているので、捲れた赤いスカートから白い下着(ショーツとスリップ)が見える。いわゆる元祖「パンチラ」の少女画だが、赤い靴とスカートと緑色の上掛け(背凭れ)との補色コントラスト。目を瞑った少女と目線の左方向‥‥花瓶が飾られたチェストに掛けてある黄色い布が不安定で不自然なバランスを保っている構図に魅了される。モデルの少女はクール・ド・ロランの隣人の娘テレーズ・ブランシャール。自分の存在と時間を持て余して倦んでいるような少女と手前でミルクを無心に飲んでいる飼いネコとの対比も絶妙である。猫と少女は互いに干渉することなく気儘に振る舞っている。画面から醸し出される時が止まったような夏の倦怠感は少女が見ている夢が余り楽しそうではないということも暗示しているような気がする。
⃞ 美しい日々(The Golden Days 1944-46)「手鏡を見る少女」はバルテュスが何度も描いたお気に入りのモチーフの1つである。大きな草色の靴のようなソファに寝そべり、左手に持った手鏡を見つめる少女(モデルはオディル・ビュニョン)。不機嫌そうな〈夢見るテレーズ〉とは対照的に少女は自分の顔が映っている鏡を満足げに眺めている。この絵の不思議なところは画面右側の燃え盛る暖炉に薪を焼べている上半身裸の男の後ろ姿である(暖炉に立て掛けた火掻き棒の傍らには木彫りの人形らしきものが置かれている)。顔の見えない男は少女の父親なのか兄なのか、それとも使用人なのだろうか?‥‥暖炉の炎は謎の男の情念を想わせるが、手鏡を見つめる少女は全く動じていない。「美しい日々」というタイトルも何か重大な事件が起こる特別な日ではない日常を表わしているかのように思われる。〈美しい日々〉は「手鏡を見る少女」が登場する最初の作品で、晩年のバルテュスは「猫と鏡と少女」をモチーフにした〈猫と鏡〉シリーズ3部作(少女が手鏡を猫に向けてビックリさせている!)も描いている。
⃞ 猫と少女(Girl on a Bed 1945)小さなベッドで横たわるヌード少女と彼女の足許で寛ぐネコ。「猫と少女」というモチーフもバルテュスの絵の中では切り離せない親密な関係にある。
〈決して来ない時〉(1949)では窓の外を眺めている女性の後ろ姿を背景にして、椅子に仰向けに寝そべって左手で背凭れの上にいるネコの顔を撫でる白いガウン姿の少女が描かれているし、同じ構図のヴァリエーションである
〈猫と裸婦〉(1948-50)ではヌードの少女が椅子に仰け反って、頭上のテーブルで寝転がっているネコを撫でようとしている。「猫と少女」は〈夢見るテレーズ〉よりは親近感が増して、お互いに意志の疎通があるように感じられる。〈猫と少女〉のネコは亡霊のようだが、〈決して来ない時〉のネコは笑っているように見えるし、〈猫と裸婦〉は目を細めて喜んでいる。だからと言って、バルテュスの描くネコたちは多くの少女たちと同じく全然可愛くないけれど。
⃞ 地中海の猫(The Cat of La Mediterranee 1949)パリ・オデオン広場にあるシーフード・レストラン「ラ・メディテラネ」のために制作した室内看板画。地中海から出た虹が綺麗な魚たちに変身して空を飛び、弧を描いて食卓の皿の上に載る。椅子に座り、左右の手にナイフとフォークを持っているネコ男の左の箱の上には大きな皿に伊勢エビが盛ってあり、海上ではボートに乗った少女が左手を振っている。ボートの少女は〈決して来ない時〉や〈猫と裸婦〉のモデルと同じくジョルジュ・バタイユの娘ローランスで、当時バルテュスの恋人だったという。バルテュスにしては珍しくサーヴィス精神旺盛なのはレストランの看板ネコが海鮮料理の生きの良さをアピールした広告的な絵だから?‥‥海上に架かった七色の虹がカラフルな魚へメタモルフォーゼするシュールな構図や明るい色調はサルヴァドール・ダリ風でもある。
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⃞ 朱色の机と日本の女(Japanese Woman with a Red Table 1967-76)1961年、ローマのアカデミー・ド・フランスの館長に就任したバルテュスはフランス文化大臣アンドレ・マルローの要請で1962年7月に初来日した。プティ・パレ美術館で開催される「日本古美術展」の作品選定のための訪日だったが、京都案内の通訳者の1人として同行した女子大生・出田節子(20歳)に「一目惚れ」したバルテュス(54歳)は長く別居中のアントワネットと離婚し、1967年に結婚することになる。節子・クロソフスカ・ド・ローラは当時バルテュスが高名な画家であることを知らなかったというから、年長の仏画家と結婚することになろうとは想像もつかなかったでしょう。ローマのメディチ館で暮らしていた60年代に絵のモデルとなった節子夫人。日本人妻をモデルにした絵は浮世絵の影響が色濃い。不自然なポーズで衝立てを見入る半裸の日本人女性は幼気に見えてしまうけれど、画家の主眼は朱色の机の逆遠近法や平面的な画面構成にあるのだろう。
⃞ 読書するカティア(Katia Reading 1968-76)〈美しい日々〉の少女を鏡の中の世界のように左右反転させた作品。モデルの少女はメディチ館の料理人の娘カティアで、手鏡の代わりに縦長の黄色い本『タンタンの冒険』を両手で持っている。館内の壁の質感もリアルに描かれている。〈読書するカティア〉は開催の1カ月前に急遽交渉が纏まって出品されることになったそうだが、本回顧展はバルテュスが家族と共に晩年を暮らしたスイス・ロシニエールのグラン・シャレのアトリエを忠実に再現している。絵筆や絵の具、愛読書、杖など、画家の「愛用品」をコレクションした最終コーナには馬やチェシャ猫、ハンプティ・ダンプティ、少女などを描いた愛らしい
〈春美のための9つのデッサン〉(1976-77)も展示されていた。
「バルテュス展」(東京ステーションギャラリー 1993)に先立ってグラン・シャレで撮影された写真パネル(篠山紀信)も飾られているが、前回出品されていた
〈猫と鏡(III)〉(1983-94)の完成ヴァージョンが見られないのは残念だった。
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「期限付き無料鑑賞券」(~5/18)を貰ったので、夜間開館日(金曜)に行って来ました。上野の美術館に行く時はU谷駅で降りて歩くことにしていますが、谷中のネコたちに会えるかも?‥‥と淡い期待を抱いて、N暮里駅で下車してみた。ところが「猫町」への道を間違えたのか、両側が墓地の通りにはデブ猫1匹
(写真)しか見当たらない。
「バルテュス展」(東京都美術館)は3フロア(B1~F2)を巡り歩く展示方法のせいか、少なくない作品数(約100点)にも拘わらず散漫だった。「習作」だけの出品だった
〈山(夏)〉(1937)や
〈街路〉(1933)が展示されていれば印象も変わったのかもしれませんが‥‥。バルテュスが描いた猫や少女たちは薄暗くて狭い空間で見てこそ、妖しく光り輝くのではないかしら。バルテュス自身も気に入っていたという赤煉瓦造りの駅舎の中の迷路のような美術館‥‥21年前の「バルテュス展」の方がインパクト強かったにゃん。
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cats, girls and balthus / sknynx / 528
バルテュス展
- 主催:東京都美術館 / NHK / NHKプロモーション / 朝日新聞
- 会場:東京都美術館
- 会期:2014/04/19-06/22
- メディア:絵画
- 展示作品:ミツ / 鏡の中のアリス / キャシーの化粧 / 猫たちの王 / 夢見るテレーズ / おやつの時間 / 金魚 / 決して来ない時 / 猫と裸婦 / 美しい日々 / 猫と少女 / 地中海の猫 / 横顔のコレット / 白い部屋着の少女 / 樹のある大きな風景(シャシーの農家の中庭)/ トランプ遊びをする人々 / 朱色の机と日本の女 / 読書するカティア
評伝 バルテュス
- 著者:クロード・ロワ(Claude Roy)/ 與謝野 文子(訳)
- 出版社:河出書房新社
- 発売日:2014/04/21
- メディア:単行本
- 目次:他人から離れて身を置くひと / 猫少年から猫の王様に / 見習い時代 / 少年画家 / 夢幻的な微笑 / 原住民騎兵 / 街路 /「嫌われるということの貴族的快楽」(ボードレール)/ 肖像画 / もろもろの東洋 / 風景画 / 素描、芯の芯 / 光の肖像 / シャッスィー / 鏡の向こう側の国 / 主題と変奏 / 芝居の世界 / ローマ、メディチ館 / 人々の見たバルテュス / 東方...から来た奥方 / 山の上のグラン・シャレー / アトリエの対話 / バルテュス語録 / 時を飼いならす人
バルテュスの優雅な生活
- 著者:節子・クロソフスカ・ド・ローラ / 夏目 典子・芸術新潮編集部(編)
- 出版社:新潮社
- 発売日:2005/09/21
- メディア:単行本
- 目次:バルテュスがバルテュスになるまで / 愛した館、慈しんだもの / バルテュス交遊録 / 音楽のように、空気のように夫バルテュスとの40年間(節子・クロソフスカ・ド・ローラ)/「描くことは祈り」バルテュス略年譜 / バルテュスの遺志を継ぐ / バルテュス作品が見られる美術館 / バルテュスの愛したスイスの小さな村々
ド・ローラ節子が語る バルテュス 猫とアトリエ
- 著者:夏目 典子・NHK出版(編)
- 出版社:NHK出版
- 発売日:2014/04/16
- メディア:単行本(ソフトカバー)
- 目次:バルテュスのアトリエ / グラン・シャレの日々 / 猫の王様、バルテュス / 飽くことなき美の追求 / 特別寄稿 理想の美を求める古典主義者(高階 秀爾)
バルテュス、自身を語る
- 著者:バルテュス / アラン・ヴィルコンドレ(Alain Vircondelet)/ 鳥取 絹子(訳)
- 出版社:河出書房新社
- 発売日:2011/02/18
- メディア:単行本
- 目次:鏡の画家(ポール・ロンバール)/ 出版社より / まえがき(アラン・ヴィルコンドレ)/ バルテュス、自身を語る / 略年譜
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