• 主人公の前から姿を消してしまう不在の《彼》もしくは《彼女》とは、まさしくこの、いまだ書かれていない作品そのもののことなのだ、と少しばかり感動的になって考えたので、自分の率直さに対して涙ぐむほどだった。大量のお湯の中にわたしの身体が溶け込み、すでに身体でもなく、それを圧迫しつつ取り囲みあたたかい柔らかさで包み込むお湯でもなく、すべての存在と私を結びつけ溶かし込む水の中に、すでにわたしではないものが浮かんでいるのだった。沈黙と静寂と湯気の乳白色の靄ごしに揺れる薔薇色の陽の光の中で時は柔らかく引きのばされ、湯は夢見られた夢の中でのようにひろがりはじめ、そして、その夢もわたしが見ているのではなく、彼女が見ていてわたしはその夢の登場人物にすぎないという、むずがゆい夢想が、ふたたび湯のなかに溶け込む。わたしの(わたしたち、の)夢に吊されて──。
    金井 美恵子 「プラトン的恋愛」


春の雨の中で独白する「少女」‥‥(傍らのポリバケツとの比較から)「人形」と諒解することで獲得した安堵感が通りすがりの女学生たちによって崩れた瞬間の眩暈が今でも内部で渦巻く。1978年、101頁(LaLa 5月号)に一挙掲載された「綿の国星」が仔猫ちゃんの物語だなんて予告されなかったし、誰も予想出来なかったのも無理はない。長い貝殻の中の螺旋形を、もう一巡しなければならなかったからだ。大島弓子さんの作品群は幻想的(ファンタスティック)でありながら、その根底に現実レヴェルの「苦いオチ」を周到に用意することで、逆に透明な潔癖性というリアリティを保つ。御茶屋峠のドッペルゲンガーは「男装の麗人」=妹さえ子の涙ぐましい変装だったし、初恋の少女に瓜二つの黄昏魔女・邪夢は「昼間は中学生、夜は娼婦」の売春少女だった‥‥というように、余りにも騙し方が鮮やかなので彼女(彼女たち)の巧妙なトリックに引っ掛かる度に、まるで擬似ファンタジーじゃないかと悪態を吐きたくなるのだった。実際の構造は複雑多岐に渡るので、別世界への移行がスムースなだけに帰還者の心情はササクレ立つものらしい。

純然たるファンタジー作品『綿の国星』シリーズが衝撃的だったのは、現実レヴェルでの「解釈」を回避し続けている点に収斂される。チビ猫の夢を見ているのは彼女自身なのか、それとも他の登場人物(それとも作者、読者?)なのだろうかという複合的な入れ子迷宮は、赤い王様(Red King)の見ている夢の中の登場人物に過ぎないじゃないかと双子でホモ(?)のトウィードル兄弟に指摘された鏡の国のアリスの自問そのものであろう。《夢を見ているのは誰か》という撞着的な命題を夢の中の登場人物たちに解明することが不可能ならば、その「主体」の正体を知るすべもなく彼らは「他人の夢の中で」宙吊りにされ続けるしかない。作者と読者は夢の外部の縁に佇んでいるのだろうか。いずれにしろ《わたしはその夢の登場人物にすぎない》。

最終章でアリスは《どっちの夢だったの?》と仔猫(黒猫)ちゃんに質問しているけれど、チビ猫の「長い夢路」は一体いつまで続くのだろう。その時、夢みる「主体」は目醒めるのだろうか(「夢の時間」が醒めてみれば一瞬でしかないのなら、覚醒が「死」である可能性についても考えるべきである)。作者は「毛糸弦」(Part 11)の中で1つの解答を示唆しているらしい。須和野チビ猫の物語が女子高生・新田美柑の見ている夢かもしれないという答案を‥‥。眠りから目覚める冒頭シーンとラストの独白が、本篇(Part 1)の裏返し=合せ鏡になっている。もし、そうだとすると美柑の良きボディガード・キャット君でもあるナレーション担当の「バカ猫」ニャーニャに対する、単なる末端的人物(ターミナル・キャラクター)なのかという新たな疑問が生じるのだが‥‥どっちの夢だったの?

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永い冬休みの後、独立した短篇としては「裏庭の柵を越えて」(1981)以来、8ヵ月振りに発表された「桜時間」(Petit Flower 1982)は、かつての少女と恋人の恋愛物語から結婚を経て、母親と息子というユーミン・ワールドの新展開を予想させる。4人目の男と結婚した畑野とり子の1人息子・うさ吉は別れた3人の元恋人たちの中の1人の子供だった。朝のTVニュースに映し出された連続殺人事件の容疑者・水下幸人(射殺!)の顔写真が最初の恋人スウィマーそっくりだったことに、とり子はショックを受ける。凶悪な殺人鬼が実の父親だった !?‥‥妄想癖に陥るとり子。その一方で日々、凶暴性を帯びるうさ吉‥‥いや、くま吉。「桜時間」にドンデン返し(オチ)はない。うさ吉の父親はスウィマーだったのか、風の吹く日に「狼男」に変身する水下幸人とスウィマーが同一人物だったのかどうかも明らかにされない。

《家の近く水辺に / 人の姿をすっぽりかくす / 背高い葦の大群落があった》──公平くんの初恋の相手は同じ高校の男子生徒だった。息子がゲイになってしまうのを危惧した父親は、異性に目覚めさせる目的で悪友の愛娘・朝丘結を家へ呼び寄せる。しかし、結は逆に公平の初恋を応援‥‥彼は憧れの恋人・千住まといに女装して近づくのだった‥‥。「パスカルの群れ」(週刊少女コミック 1978)は男たちのパスカリック・ラヴ(?)を描く。相思相愛のホモ同士なら良かったけれど、千住まといはストレート人間。しかも女装した公平に男とは知らずに恋をする。男であることを告白出来ない公平は「少々突飛だが、おれの初恋も、こいつの初恋もメチャメチャにしないで幕にする法」を思い付く。「‥‥の群れ」と複数形になっているところが心憎いですね。

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《English Settlement》(Virgin 1982)は大英帝国の植民地政策を批判したアルバムだと思う。冒頭のColin Mouldingの2曲〈Runaways〉〜〈Ball And Chain〉が拉致と奴隷制を仄めかす。3曲目の〈Senses Working Overtime〉は過重労働とは裏腹に精神が研ぎ澄まされるランナーズ・ハイ状態を歌っているが、続く〈Jason And The Argonauts〉でアルバム・テーマをグロテスクに曝け出す。「金羊毛」を求めて黒海の彼方へ遠征したイアソンとアルゴ船乗組員の神話をタイトルにしたスウィフト風の諷刺物語。そこは地上の楽園ではなく、獣人たち(manimals)が他人の生命までをも売買する身の毛もよだつデストピアだった。《There may be no golden fleece but human riches I'll release》というリフレインが耳に痛い。

第三世界を支配した大英帝国らしくワールド・ミュージック色も濃厚で、ジャマイカ止まりだった《Black Sea》(1980)の潜水艦の航海に対して〈アフリカの近く〉まで脚を伸ばす。〈Yacht Dance〉は6拍子、〈English Roundabout〉は5拍子だったりする。Andy Partridgeの雄叫びが爆発する〈No Thungs In Our House〉、ダブ的なサウンド遊びが愉しい〈Melt The Guns〉、蠅の1人称視点で室内をクールに描写する〈Fly On The Wall〉(ヴァージニア・ウルフの「The Mark On The Wall」はカタツムリだったけれど)、メカおたく少年のコックピット願望を満たしてくれる珍しいダンス・ナンバー〈Down In The Cockpit〉、「雪だるま」のように扱われた男の悲哀を描く〈Snowman〉まで、ヴァラエティに富んだ楽曲が並んいる。

XTCの5thアルバムは英アナログ2枚組(全15曲)でリリースされた。US盤は1枚(全10曲)に編集され、初期のCD盤も何故か13曲と2曲少なかった(技術的な問題か?)。その後、15曲を完全収録したCD(73分23秒)に改訂されたが、オリジナル・アナログ盤の曲順とスリーヴを踏襲したリマスター・シリーズ(2001)は、このアルバムに限らず音質面で向上している。Hugh Padghamのプロデュースしたサウンドは、Steve Lilywhiteのスネア音やダブ処理を継承しながら特徴的な音像定位を創出。決して派手ではないけれど、巧緻なアクースティック・アンサンブルを構築した。残音ないスネア、ノイジーなハイハット、奥行きのあるダブ空間、Colin Mouldingのフレットレス・ベースも効果的だ。

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「雛菊物語」(Gals Life 1980)のヒロイン都窪菊子(高2)は自殺願望少女。凍死、感電死、首吊り、「お醤油3合のみましょか」、ガス中毒など‥‥日々、あらゆる自殺方法を考えていて、学業にも進路指導にも身が入らない。心理学を専攻する大学生の兄・信彦は両親を説得して一芝居打つ。「菊子が余命1ヵ月!」というショック療法を施し、その行動を見張ることにするのだが、ディスコの音と光に幻惑されて妹を見失う。疑心暗鬼に駆られる信彦の背景に歓楽街のネオン看板が浮かぶ。「ぴーひゃら」「夢見酒」「クリキン」「XTC」「どんどん」‥‥。大島弓子はXTCのファンだったのか。雑誌掲載時の番外編 わたしの生態学「弓子博物館」には、ユーミンの大好きなDavid Bowieのアルバムや愛読書『8マン』は掲載されているのですが。

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過去に書いた手書き原稿を加筆・改稿してUPするアーカイヴス・シリーズの第5弾です。〈パスカル的恋愛〉というタイトルは朝丘結の科白──《‥‥ / いうならば / こちらのバカ息子は / プラトニックラブと / いうより / パスカリックラブとでも / 名づけたいようです / けど‥‥》から採りました。後半部分(XTC)は全面改稿しています。1枚に編集されたアナログUS盤《English Settlement》のレヴューだったので‥‥。新テクストは2枚のCD──UK盤の歌詞カードとリマスター輸入盤(2001)に準じています(後者のスリーブが使いものにならないことは〈オレンジとレモン〉に書きました)。ロラン・バルトの「アルゴ船」みたいになっちゃいましたね。

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  • 「パスカルの群」と「パスカルの群れ」の2つの表記が存在します。初出は不明ですが『シンジラレネーション』(朝日ソノラマ 1982)では「群」、大島弓子選集 8『四月怪談』(1985)では「群れ」になっています

  • またまた浅読みがバレちゃった。「桜時間」って、怖〜〜い話だったんですねぇ‥‥続きを読む(2007/05/22)

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愛の生活 / 森のメリュジーヌ

  • 著者:金井 美恵子
  • 出版社:講談社
  • 発売日:1997/08/10
  • メディア:文庫
  • 収録作品:愛の生活 / 夢の時間 / 森のメリュジーヌ / 永遠の恋人 / 兎 / 母子像 / 黄金の街 / 空気男のはなし / アカシア騎士団 / プラトン的恋愛


綿の国星 3

  • 著者:大島 弓子
  • 出版社:白泉社
  • 発売日:1994/06/17
  • メディア:文庫
  • 収録作品:毛糸弦 / 夜は瞬膜の此方 / 猫草 / かいかい / ド・シー / ペーパーサンド / チャコールグレー / 晴れたら金の鈴 / お月様の糞


バナナブレッドのプディング

  • 著者:大島 弓子
  • 出版社:白泉社
  • 発売日:1995/09/14
  • メディア:文庫
  • 収録作品:バナナブレッドのプディング / ヒー・ヒズ・ヒム / 草冠の姫 / パスカルの群れ


四月怪談

  • 著者:大島 弓子
  • 出版社:白泉社
  • 発売日:1999/03/12
  • メディア:文庫
  • 収録作品:四月怪談 / ローズティーセレモニー / きゃべつちょうちょ / ページ 1 / 雛菊物語 / 桜時間 / 金髪の草原


English Settlement

  • Artist: XTC
  • Label: Virgin
  • Date: 2001/06/11
  • Media: Audio CD
  • Songs: Runaways / Ball & Chain / Senses Working Overtime / Jason & The Argonauts / No Thugs In Our House / Yacht Dance / All Of A Sudden (It's Too Late) / Melt The Guns / Leisure / It's Nearly Africa / Knuckle Down / Fly On The Wall / Down In The Cockpit / English Rou...