ドナルド・サザーランド扮する老科学者ウィルヘルム・ライヒ(Wilhelm Reich)と、その息子ピーター。黒塗りのリムジンで拉致される父親のフラッシュバック──父の外套を羽織りクラウドバスター(人工降雨機)を操作する短髪少年(若作りのKate Bush!)がレバーを動かすと、ラッパ状の部分から波動砲(古い!)みたいな光線が大空に突き刺さり、雲々がざわめく‥‥。〈Cloudbusting〉のプロモーション・ヴィデオ(PV)は良く出来た短篇映画と呼ぶべきもので、楽曲だけから漆黒の巨大オブジェ、あるいは役立たずの騒音楽器めいたクラウドバスターの存在を想像するのは難しい。氾濫するPVの中には原曲の喚起するイメージを限定したり拡散したりしてしまう映像も少なくないが、このPVは幾つかの曖昧な歌詞に説得力を与えている。むしろPVの方が彼女の最初のイメージに近いのかもしれない。

PVによって楽曲の評価が左右されるのか?‥‥という意見には〈Cloudbusting〉(EMI 1985)のアナログ盤スリーヴ──クラウドバスターを駆動させるKate Bush(表)、妙齢化した彼女のポートレイトとソラリゼーション加工された雨雲(裏)──を見て欲しい、と答えておこう。リスナーは防音処理された部屋の中で左右のスピーカから奔流する音だけを聴いているわけではない。ジャケット、歌詞カード、アーティストの容姿、キャリア、言動などの要素が「音そのもの」をオーラのように覆い発光させている。その中でもPVの影響は無視出来ないし、単なる販宣品ではなく独立した映像作品と看做すことも可能だ。80年代は音楽の映像化?MTV世代の擡頭と記憶されるかもしれない。もっとも、ウンザリさせられるPVも掃いて捨てるほど毎日、モニタ画面を覆い尽くしているのだが。

CDを聴いているだけでは不明瞭だった部分──たとえば《政府から匿ってあげられない》という一節(12インチ・ヴァージョンの「The Organon Re-mix」からは削除されている)がPVによって氷解する。あるいは逆に「闇の中で光るヨーヨー」のエピソード──私は、そのヨーヨーが怖くて庭に埋めてしまう──はPVには描かれていない。恐らく後者はKate自身の幼児体験に根ざすものだろう。「We're cloudbusting, Daddy」という後半に挿入される印象的なナレーションを聴くと、父親に捧げた一種のオマージュと受け取れなくもない。幼児体験と血族愛(時として「聖少女」の危うさを秘める)が彼女の作品のモチーフになっていることは疑う余地もない(少年ケイトは薹が立っていますが、父親役を演じたD・サザーランドは名優ですね)。

《Hounds Of Love》(1985)に収録されている〈Cloudbusting〉の1つ前の曲、リン・ドラムと古風なシンセ音、Eberhard Weberの饒舌なベースで成り立っている〈Mother Stands For Comfort〉では、タイトルの示す通り母親に庇護された少女期の「黄金時代」のことを歌っているらしく、ママが「殺人鬼」や「狂人」さえも隠してくれる。逼迫感溢れるアルバム・タイトル曲〈Hounds Of Love〉も少女時代の性急な「夜を走る」畏怖感を端緒としていた。上記3曲を含めた前半の5曲は、それぞれタイプの異なる、いずれ劣らぬ良く練られたシングル向きの歌曲集(4枚の12インチ・シングル盤がカットされた)といった趣きで、全7曲が組曲風に構成されている後半の〈The Ninth Wave〉と好対照をみせる。〈羊の夢〉から〈朝霧〉まで、途中フェアライトの速回し風スクラッチやヘリコプターのサンプリング音を援用したスリリングな展開を経て、〈ようこそ地球さん〉の「Peek-a-boo, Peek-a-boo, Little Earth.」というKateちゃんの可憐な歌声に辿り着くと、流石にホッとしちゃう。

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『日出処の天子』(白泉社 1980ー84)の続編として月刊Lalaに発表された「馬屋古女王」(未完)の完全版が新雑誌ASUKA(角川書店 1985)に掲載された。変則的といえば約4年間連載されていた本篇の終わり方(打ち切り?)も、某毎日新聞の中傷記事などの外部からの圧力が裏で働いたのかどうか、何故かスッキリとしなかった(毛人を失った厩戸王子が「気狂いの幼女」を異性として選ぶところで、この大作は完結している)。「結末を決めてからでないと執筆出来ない」作者・山岸凉子の創作法がエンディングの下手さ加減──『妖精王』(© 樹村みのり)のラストを見よ!──と相俟っての結果なのかもしれないが、いずれにしても彼女の最初に想定した結末が故意に捩じ曲げられていないことを祈るだけである。

物語は厩戸王子の歿後、幽閉されていた馬屋古女王を山背大兄王子が外界へ解き放つシーンから始まる。厩戸王子に生き写しの、この末娘こそ(どちらも「人間離れ」している点では共通しているが)、すべての元凶「恐の卦」で、王子をプラスとすればマイナスの因子を集結した毒々しい隠花植物のごときものであろうか。すぐ胸を露わにしたがる天然ニンフォマニアの行動原理は「愛憎」という本能のみであり、「憎悪」によってしか超能力を発動(発情 !?)出来ない。あるいは相手の「情動」に敏感に反応?増幅する媒体としての機能を持つ。春米女王や蘇我入鹿への凄まじい形相?殺意、そして山背大兄王子の微かな動揺を捉えた、幼い白髪部王の殺害──媚態は誘惑へ、嫉妬は憎悪へと瞬時にして移行する。まぁ、女性一般の属性の誇張化・普遍化だと想えば納得出来なくもないけれど、「女は嫌いだ!」と、つい本質的なことを口走ってしまう厩戸王子のストイックな性格が今では愛おしい。

キャラクターの対応関係は王子(父)と王女(娘)に留まらない。毛人は入鹿と、間人媛は佐富王女(それぞれ父と息子、母と娘)に置き換えられる。ただし、山背大兄王子だけは特殊で、入鹿と彼が瓜2つなのは単なる偶然の一致ではなかった。なぜなら大兄王子は厩戸王子と刀自古の実子ではなく、実は毛人と刀自古の兄妹相姦の結果だったのだから!‥‥毛人に対する刀自古の「愛情」には尋常ならぬものがあって、その美貌と共に圧倒されるけれども、おいそれと叶うものではない。ところが彼女は布都姫と毛人の逢瀬(2人の中を阻もうと画策する王子のサイド・ストーリ!)を千載一遇のチャンスと捉え、それを逆用することで「懐い」を成就させてしまうのである(「禁忌された恋」という面では、王子と刀自古、ホモセクシャルとインセストは似ているのかもしれない)。従って毛人のキャラクターが陰と陽に、山背大兄王子と入鹿に分割されたと考えた方が正しい。王子(+)は女王(ー)に、毛人は入鹿(+)と山背(ー)の2つのキャラに転換されたのである。

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山岸作品の構造はキャラクター相互の力関係と無縁ではない。たとえば、ノンナとユーリとエーディクや、蘇我要と大西久美と新田忍、あるいは忍海爵とクーフーリンとクイーン・マブという関係でも良い。彼らは有機的に2次元を動き回り、バランスを崩して終局を迎えるか、さもなければ新たな曲面へ発展して別の力関係を創り出す。作者の描くキャラの対立概念は相反するライヴァル同士の関係だけではなく、もっと複雑な相愛関係(男女を問わず)をも内包している点で傑出しているし、それが彼女の創り出すキャラクーの魅力にもなっている。「馬屋古の女王」の場合には〈負のエネルギー〉のために始めからバランスが失われているのだから、物語の行方も自ずから知れていよう。禍々しいブラックホールと拮抗出来るのは今は亡き王子だけである。佐富王女のプレコグニションによる法隆寺炎上の幻視と、それに続く入鹿の独白のラスト・シーンを見てしまった後では、果して厩戸と馬屋古の間を埋める作業が今後必要なのかどうかさえ疑わしく思えて来る。

「超能力」と「同性愛」の関連は兎も角、厩戸王子の不幸の1つはバイセクシャルでなかったことにあったのかもしれない。ホモセクシャルの蔓延が人類を破滅へと導く未来には、人工授精という手段によって種族保存の機能を維持するとしても、独身者に「苦痛」と「快楽」を奪われたまま取り残された女たちが全面賛成するかどうか疑わしいことは記憶しておいても良いだろう。「花の24年組」と称される少女マンガ家たちの実験──たとえば、ジルベール・コクトーとセルジュ・バトゥールや鷹塔摩利と印南新吾(それぞれ前者がバイセクシャルで後者がストレート)の場合は一体どうだったのか?‥‥現実生活に適応出来ずに自ら死を選ぶジルベールや、第2次世界大戦のために志半ばのまま別離=死を余儀なくされた「しまりんご」のラストは、涙なしに読み終わることが出来ない。

厩戸王子と布都姫の究極の二者択一を逼られて結局「女性」の方を採る毛人。いずれも決して首尾良く成就したとは言い難い彼らのホモセクシュアリティは、そのカップルが実際にインターコースしたかどうかよりも、肉体を超えたメタフィジカルなものを希求する意志が窺われて興味深い。双方バイセクシャルなら上手く行ったかしら?‥‥と考えてみるのも一興で、「女性嫌悪」で悩むことがなくなった代わりに生じる複雑怪奇な現象をあれこれ夢想するのも悪くない。あるいは萩尾望都のように第3の可能性を模索する方法も残っている。それは男女融合(中性人間)、完全なる性転換、クローン人間、1夫2婦制(三位一体?)といったSF的なイメージと超倫理性に支えられている。

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布都姫の祈祷に端を発する「雨乞いの儀式」は、終盤の倉梯宮炎上シーンと共に『日出処の天子』後半のハイライト場面であろう。そこでは主要登場人物たち──王子、毛人、刀自古、布都姫、泊瀬部大王、額田部大王──の様々な思惑が交錯する。人工的に雨を降らせること、「自然の気を動かすこと」は王子の超能力をもってしても至難の技で──居ながらにして書庫から所望の巻物を机上まで空中浮游させたまま目前でスルスルと広げるような芸当とは較べようもない!──最終的には毛人の潜在能力を「利用」しなければならなかった。しかし、それは人間を超えた行為だった。2人の「合体」によって人間以上の存在になれると確信を深める王子の「野望」を通常人たる毛人は拒否せざるを得ない。「まことに神をも恐れぬ所業」というわけで、レインメーカー父子が当局から弾圧された理由も遅ればせながら氷解する。もっともKate Bush嬢は〈Running Up That Hill〉の中で《出来るものなら神と取り引きしたい》と歌っていたのだが。

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過去に書いた手書き原稿を加筆・改稿してUPするアーカイヴス・シリーズの第7弾です。Kate Bushの〈Cloudbusting〉と厩戸王子の「雨乞いの儀式」から、「亡き王子を偲ぶ人工降雨曲」という意味のタイトルを付けました。A面にシングル・カット曲、B面は組曲風という構成の《Hounds Of Love》は《Abbey Road》を意識した力作。〈The Big Sky〉ではKilling JokeのYouthがベースを弾いています。〈Mother Stands For Comfort〉のキックはウラ打ち。『日出処の天子』に真正面から挑むのは無謀な行為なので、「馬屋古女王」という魔性の娘から逆さまに覗いてみました。機会があったら『はみだしっ子』のように再読したいと思います。馬屋古女王の顔が中森明菜さまに似ているような?‥‥。ちなみに山岸凉子の飼っていた牝猫はケイトちゃんという名前なんですよ。

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Cloudbusting (Organon Re-mix)

  • Artist: Kate Bush
  • Label: EMI
  • Date: 1985/10/14
  • Media: 12" Vinyl
  • Songs: Cloudbusting (Organon Re-mix) / Burning Bridge / My Lagan Love


The Hounds of Love

  • Artist: Kate Bush
  • Label: EMI
  • Date: 2002/02/25
  • Media: Audio CD
  • Songs: Running Up That Hill (A Deal With God) / Hounds Of Love / The Big Sky / Mother Stands For Comfort / Cloudbusting / And Dream Of Sheep / Under Ice / Waking The Witch / Watching You Without Me /


日出処の天子 1

  • 著者:山岸 凉子
  • 出版社:白泉社
  • 発売日:1994/03/22
  • メディア:文庫


馬屋古女王 ── 山岸凉子全集 9

  • 著者:山岸 凉子
  • 出版社:角川書店
  • 発売日:1986/03/20
  • メディア:単行本
  • 収録作品:馬屋古女王 / 神かくし / 神入山(神かくし Part2)