• オラフ・ステープルドンの『シリウス』や丸山健二氏の『シェパードの9月』等、犬好きにはこたえられない小説は数々あるが、何と言ってもベスト・ワンはフィリパ・ピアスの『まぼろしの小さい犬』であろう。ピアスは『トムは真夜中の庭で』(岩波書店)や『ハヤ号セイ川をいく』(集英社)で知られるイギリスの女流児童文学者で、きめ細やかな心理描写に定評がある。『まぼろしの小さい犬』は、犬を飼いたいと熱望しながらロンドンの住宅事情のせいで諦めざるを得ない少年がいつしか瞼の裏に幻の小さい犬を見るようになる、という胸の痛くなる物語である。まさに犬好きにとってはバイブルで、私も小学5年生以来何度読み返したことか。少年少女学研文庫に入っていたこの本はすでに絶版らしい。もし再刊されることになれば、犬好きのための最高のプレゼントとなるに違いない。
    松浦 理英子『優しい去勢のために』


犬好きの松浦理英子が小学5年生の時に読んで胸を痛めた『まぼろしの小さい犬』(岩波書店 1989)は、犬を飼いたくて堪らない少年ベンがロンドンの住宅事情から願い叶わず「幻の犬」を幻視してしまう物語である。著者のフィリパ・ピアスには『トムは真夜中の庭で』(1958)という傑作ファンタジーがあるが、箱庭的な時間ファンタジーの「トムまよ」に対して本作はレアリスムの手法で描かれている。母方の祖父フィッチ老人から誕生日のプレゼントに「仔犬」が貰えると信じ切っていたベン少年は「仔犬」の代わりに送られて来た額装された1枚の小さな絵──船乗りのウィリーおじさんが生前メキシコで購入した骨董品。少女の手の中に毛糸で刺繍された仔犬、チキチトという名のチワワ(犬種・地名)描かれている──に深く落胆する。

目を閉じると瞼の裏に現われるチキチト‥‥レアリスムの枠内で、ピアスのファンタジックな想像力はベン少年の視る「幻の仔犬」として具象化される。祖父の家で飼われている雌犬のティリー。公立図書館でチワワ〜犬に関する図書を読み漁るベン。100匹のオオカミとロシアの雪原で闘う黒い仔犬チキチト。ベッドの隅、地下鉄車内、バスの2階、下りのエスカレータを逆に駆け昇り、教室内で自由に跳び回り、橋下のテムズ川で泳ぎ、ロンドンの霧の街中で際立つレモン色のチワワ犬。クリスマス・イヴの日、ベンは車道を渡った黒いチワワを追って夢遊病者のように歩き出し、車に轢かれてしまう‥‥《ベンは片足と、肋骨3本と、鎖骨を折った上に、脳震盪を起こしていた》。病院のベッドの上で眠るベン。リトルバリーのフィッチ家から帰る際、車内に置き忘れてなくした絵の中の毛糸の仔犬、目を閉じた時に視える小さな黒い犬、3匹の〈見えない犬〉が夢の中でグルグルと駆け回る。

自分の犬を飼いたいというベンの願いは、長姉メイの結婚と、その姉と同居する次女ディリスの自立に伴うブルリューイット家の北ロンドンへの引っ越しという、思いがけない形で叶う。ティリーが産んだ9匹の仔犬の中の1匹ブラウン。ベンは新しい家の近郊に広がるハムステッド自然公園でブラウンと一緒に散歩することを夢見る。しかし、チキチト・ブラウンは彼が夢見た仔犬とは程遠い平凡な茶色い犬だった。再び深く落ち込むベン。ピアスは主人公が願った通りの、理想の仔犬を手に入れる安易なハッピーエンドを許さない。夕暮れて行くハムステッド自然公園で、最後にベンは幻の仔犬「チキチト」と決別して、「ブラウン」という凡庸な現実を受け入れる。初恋の女性を諦めて「現実」の恋人と結婚することに決めた青年の心情のように辛く切ないラスト・シーンだ‥‥。犬好きの元美少女・松浦理英子でなくても胸が痛くなるだろう。

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『ルーとソロモン』(白泉社 1976ー81)は大型犬ソロモン苦難のラプソディである。長女のピアに強請られて犬を飼うことになったウォーカー夫妻が血統書付きの仔犬ジーンと抱き合わせでペットショップに押し付けられた交配失敗犬のソロモン。その後ジーンを手放すことになり、哀れソロモンはピアの絶好のイジメ対象となって一方的に虐待される。唯一の味方はソロモンが来てから産まれた次女のルー(ルシール)で、「ルーのワンワン」と呼んで懐いていた。しかしイジケ雑種犬のソロモンはルーの真意を汲み取れず、2人の関係に齟齬が生じている。そんなソロモンの口癖は「食ってやる !!」‥‥。次から次に降り罹るソロモンの受難‥‥ルーの舌噛み事件、お喋りオウムとの確執、疑心暗鬼とジレンマの日々、野球でドジって記憶喪失、ニワトリとの強制同居、美少女シンシアへの禁断の初恋、エスカレートする性悪ピアの容赦ないSM攻撃‥‥ソロモンの苦悩と悲痛はデフォルメ〜百面相の眉間の皺のように深く心に刻まれる。美形獣医の(デイヴィッド)ボウイ先生や、ピアの理想の恋人(ブライアン)イーノなどのネーミングに、洋楽ロック好きの作者・三原順らしい拘泥りが感じられる。

お買い物の金を落として自殺未遂、木菟のヒナ鳥(ズグ)に対する自己嫌悪、ルーに羊の縫いぐるみをXmasプレゼントする心優しさ‥‥次第にソロモン・ウォーカーは作者・三原順とオーヴァーラップして行く。冒頭2頁分のネーム空白に続いて《作者 極度の怠慢性ウツ病 及び 原稿拒否症の為 / 書くべき台詞を忘れ去り 音声が途絶えております / 今 しばらくお待ち下さいませ》というナレーションが入る「!‥?‥!?」。筋肉疲労を風邪ひきと誤解されて大切に扱われるソロモンは内心オドオド、風邪薬アレルギーで本当にダウン‥‥「〆切りは / 寄せ来るは / 最終頁は近づくは!」「ああ!そして / 話を持ち越して / しまった今 !!」「夜がこわい」‥‥と、ソロモンに独白させる「ソロモン・ウォーカーは悪い奴」。ピアにもピアの言い分がある。堕胎した幻の弟ジョセフの命日(「屋根の上の犬」)や苦手なダンス・レッスンの日々(「あなたに捧げる花言葉」)などで描かれるピアの複雑な心情が、単なるSMギャグで終わらせない『ルーソロ』の物語に深い陰影を与えている。

「ホリデイ・片想い」は珠玉の短篇と呼ぶに相応しい異色作。ヒロインのサム(サマンサ)は、1ヵ月間の予定で親戚のリジーおばさんの家へ遊びに行く。チャールズ兄さんとの言わずもがなの会話。駅で待ち構えていたのはリジー家のロバート、ピアと悪友ドロシー、そしてソロモン。いつもよりパワーアップした「地獄の軍団」3人娘によるソロモン虐めの日々が始まる。ヴァレンタイン・デイにサムはソロモンに手作りチョコをプレゼントしようとする。激辛チョコと誤解したソロモンは拒否するが、サムに泣き付かれて破れかぶれで丸ごと喰ってしまう。サムの母親の早すぎる死、サムの残したソロモンの似顔絵、ソロモンの哀しみ、墓地のラスト・カットが胸に痛い。魔法使い修業中のトム(トマシーノ)の叶えた「3つのお願い」──〔1〕雪かき〔2〕救急箱〔3〕温泉旅行──の3番目でミニチュア手乗り犬と化してしまったソロモン君。「3つのおねがい あのねのね 3」と最終回「オール・オーバー・ナウ」で描かれるヌイグルミ犬の快適生活は、もしかしたらそれがソロモンの真の姿かもしれないというクマのプーさん的な寓話性を示唆する。もちろん期限付き(5泊6日)の変身なので、魔法が解ければ元の姿〜日常に戻るのだが‥‥。

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2005年10月2日、スヌーピーは生誕55周年を迎えた。〈スヌーピー ライフデザイン展〉(有楽町・国際アートフォーラム)は会場のA展示室を「Art Stage」「Living Stage」の2つに分けてスヌーピーをライフ・デザインする。スヌーピーの白いフィギュア(FRP製スタチュー)3体、もしくはピーナッツ・キャラ人形5体を10人のクリエータがカスタム・ペイント&コスプレ、3人の建築家が「犬小屋」を制作する「Art Stage」。村山留里子の〈鳥遊び〉〈おめかし〉〈熟睡〉は毛糸、綿、貝、竹、皮、プラスティック、ポリエステル‥‥等の素材をスヌーピーの周りにデコレートした、楽園の風景にも葬儀の祭壇にも見えるハイブリッド作品。草間彌生の3体は、お座りスヌーピーを白地に赤い水玉でペイント(鼻、耳は黒字に赤、首輪は赤地に黒)した〈水玉強迫〉、立ちスヌーピーをグリーンとイエローで網状にアクリル・ペイントした〈ネットの強迫〉、エサを食べる四つん這いスヌーピーの躰にペンネ、巻貝、螺旋、ゼンマイ、リング、円筒形状‥‥のマカロニを貼付けて合成樹脂塗装(銅色)した〈マカロニ・ドッグ、食べ物強迫〉。

3体目のメタリックな、精密時計の内部構造が露わになったような機械仕掛けのAIBO風スヌーピーは一種異様だが、水玉&ネット・スヌーピーは草間のオブセッションが逆に鑑賞者に「癒し」として機能する逸品。倉科昌高のカスタム・ペイントは緑と金の唐草模様、白地に赤と黒の象眼、茶と白茶の木目調で、衣裳、内臓、家具の〈衣・食・住〉を表現。森本千絵のインスタレーションは3体のスヌーピーにパソコンで描いた絵・文字CGをリアルタイムで映写する。チーム☆ラボの〈花紅〉は5面モニタにモノトーンの和風な日本家屋、墨絵風の蓮の花、水墨画のドラゴン、鳥獣戯画のカエル、鶴たち‥‥とスヌーピーを映し出す。宇津木えりのスタチューアートはチャーリー・ブラウンたち5体をパンダ、羊、鳥、豹、兎の着ぐるみでコスプレさせた可愛らしい作品。アトリエワン(塚本由晴と貝島桃代)の〈犬小屋〉は「スヌーピーの家の描かれなかったコマ」に注目し、どうやってスヌーピーが屋根の上に昇ったかを考えて「電動蛇腹ハウス」を考案〜製作してしまったというユーモア溢れる実物大のモービル作品。

「Living Stage」は個人デザイナーや各ブランド、企業とのコラボレート作品が並ぶ。吉川真由の〈ライナスの安全毛布〉は茶系統3色のウール毛布。BEAMSとUNTITLEDのプリントTシャツ。ファビアン・モンハイムのオリジナル香水〈Pefume SNOOPY 55〉。スティーヴン・ジョーンズのスヌーピーとウッドストックの首(仮面)を挿げ替えたブラックユーモアな〈ベスト・フレンド〉。4℃のダイヤモンド(K18WG)・ネックレス5点。世の男性なら是非ともスヌーピー好きの「彼女」に着せたい(脱がせたい?)Triumph製のセクシー黒レース下着(ブラジャー&ガーター&Tバック!)。池内タオルのタオルハンカチ。スクリーンに映写されるDーBROSのタイポグラフィ。美濃和紙+木舎のスヌーピー顔の卓上ライト・スタンド。前田ゆたかの〈すぬーぴー御所人形(桃の節句 / 端午の節句)〉。代官山にある「手拭い専門店 かまわぬ」のスヌーピー手拭い(売れ切れ?)。

ニコライ・バーグマン(Nicolai Bergmann)のワイアで象ったスヌーピーの中にプリザーブド・フラワー(緑の葉と枝)を詰め込んだエコロジカルなオブジェ。三浦加納子のプレートとペディキュア・スヌーピー。バカラ(Baccarat)の24燈シャンデリア。白山陶器の4枚1組で絵が完成するパズル皿(大小8枚)と白地に藍のティーカップ。杉野宣雄の押し花を使った「だまし絵」。テオブロマ(THE OBROMA)の黒チョコ200kgで造った、犬小屋の上で眠るスヌーピー。黒田泰蔵の白磁皿5枚。帝国ホテルのオリジナル缶入りクッキー(3缶)。藤野征一郎の菓子器5皿。熊崎俊太郎がブレンドしたオリジナル紅茶〈SNOOTEA〉5種。会場内で薄く流れていた鈴木亜美のBGMだけは余計だったが、折角スヌー・ティーも紹介されているのだから、最後に紅茶とチョコのサーヴィスがあっても良かった?‥‥あの巨大なチョコレートの犬小屋をカチ割って食べたい誘惑に駆られたのだ。もっとも会場を1歩出れば、夥しいスヌーピーたちが商魂逞しく待ち構えているのだ‥‥ワン、ワン、ワン!

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  • 「干支シリーズ・戌」というコンセプトの記事です(来年はどうするんだ!)。ネコは何10匹でもOKですが、イヌは3匹で手一杯‥‥ということで今回だけ「ネコ写真」は、お休みです。毎回愉しみに見に来てくれる猫好きの皆さん、ゴメンなさい

  • フィリパ・ピアスの原作は「ジュヴィナイル小説」ですが、多数決(?)で [comics] に分類しています

  • 次回は、ぶーけさんと約束したミレーヌ姫の記事をUPします

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まぼろしの小さい犬

  • 著者:フィリパ・ピアス (Philippa Pearce) / 猪熊 葉子(訳)
  • 出版社:岩波書店
  • 発売日:1989/07/06
  • メディア:単行本
  • 目次:誕生日の朝早く / ガラスのうしろの犬 / 口に出せないことのかずかず / リトルバーリーまではとまりません / ティリーといっしょに / 約束と虹 / ひとつのおわり / ひとつのはじまり / オオカミは何百匹と死ぬ / ロンドンの犬 / クリスマスイブの事件 / フィッチおじいさんのささやき / 保養の旅 / 雨のなかの小屋 / 犬はやっぱりだめだ‥‥ / 丘からの...


ルーとソロモン 1

  • 著者:三原 順
  • 出版社:白泉社
  • 発売日:1998/12/20
  • メディア:文庫
  • 目次:その日まで / ライト / プリーズ / イエス・イッツ・ミー / モヤ‥‥モヤ / ストップ / ウフッフッフ〜!/ 戯(そばえ)/ ハッピー・ディ / オー・マイ・ドギー!/ はばたけ光の中へ!/ ソロモンの部屋 / 知らんぷり / 部屋は北向き / 教は日曜 お買い物 /「!‥?‥!?」/ ...


スヌーピーたち ── 50年分のHAPPY BOOK

  • 著者:デリック・バング (Derrick Bang) / 笹野 洋子(訳)
  • 出版社:講談社
  • 発売日:2004/10/27
  • メディア:単行本
  • 目次:「リル・フォークス」を知っている? / 全員集合! / 本当は‥‥どうなっている? / ピーナッツ・ギャグ ピーナッツ・ジョーク / ふつうじゃないコミック / アニメとドキュメンタリーと音楽と


スヌーピー ライフデザイン展

  • アーティスト:草間 彌生 / 倉科 昌高 / 宇津木 えり / ニコライ・バーグマン ...
  • 会場:東京国際フォーラム
  • 会期:2005/11/19 ー 2006/01/15
  • メディア:デザイン


水玉強迫(2005)

  • アーティスト:草間 彌生
  • 会場:東京国際フォーラム
  • 会期:2005/11/19 ー 2006/01/15
  • 写真提供:草間彌生スタジオ