• コテージに戻り、ミュウのブランデーをもらって飲んだ。そしてそのまま眠ってしまおうとした。でも眠れなかった。一睡もできなかった。東の空が白んでくるまで、月や引力やざわめきが、ぼくをしっかりと取りかこんでいた。/ 閉めっきりになったアパートの一室で、死ぬほど腹を減らせている猫たちの姿をぼくは想像した。そのやわらかい小さな肉食獣たちのことを。そこでぼくは──本物のぼくは──死んでしまっていて、彼らは生きていた。彼らがぼくの肉を食べ、ぼくの心臓をかじり、ぼくの血を吸っているところを思い浮かべた。耳を澄ませると、遠く離れたどこかの場所で、猫たちが脳味噌をすすっている音を聞きとることができた。三匹のしなやか体つきの猫たちが、割れた頭を取りかこんで、その中にたまったどろどろした灰色のスープをすすっていた。彼らの赤く粗い舌先が、ぼくの意識のやわらかなひだをうまそうになめた。そのひとなめごとに、ぼくの意識は陽炎のように揺らぎ、薄れていった。
    村上 春樹 『スプートニクの恋人』


  • 『スプートニクの恋人』(講談社 1999)は1人2役「ぼく=すみれ」のサイコ・スリラーである。「ぼく」がすみれの恋愛‥‥「22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた」について語る冒頭シーンから茫漠とした異和感が漂う。すみれの写真が1枚もないのは変な話だし(「人間の持ちうるある種の特質についての得難い記録」って何のこと?)、「髭をはやせるものなら、きっとはやしていたはず」というユーモアも奇妙に響く。ミュウとの運命的な出会い‥‥すみれの従姉の結婚披露宴会場で同席した際の描写も不自然に映る。1人称単数を主人公(話者)にした小説は必然的に視点が固定されるために、物語世界の全体像を客観的に俯瞰出来ないという不都合が生じる。それがハードボイルドなどでは、私立探偵と読者を宙吊りにするサスペンス効果を生むのだが、常に事件の現場に居合わせないと決定的シーンを直に描写出来ないというハンデを背負う。ところが、すみれとミュウの会話を描写する「ぼく」は後日すみれから訊いた伝聞情報なのにも拘らず、あたかも偶然その席に居合わせたかのような臨場感で語る。まるで「透明人間」か「幽霊」でもあるかのように。

    さらに言えば、一見「ぼく」とすみれとミュウの不思議な3角関係のようにも思われるが、なぜか3人が一堂に会することは遂に1度もない。常に「ぼく」とすみれ / すみれとミュウ / ミュウと「ぼく」の2人(1対1)でしか現実には会っていないのだ。その不自然性がすみれからの伝聞に基づく「ぼく」の語りによって、まるで男1人女2人の異性・同性愛の3角関係のように巧妙かつ巧緻に記述されて行く。そのために多くの読者は、この恐るべき「現実」に気づかぬまま、すみれが失踪した本当の理由も分からぬまま、小説を男・女と女・女2組の「悲しい失恋物語」として幸福にも読み終えてしまう。世にも怪奇な物語の核心、すみれが鏡の中のもう1人の「ぼく」であるという「衝撃の真実」は永遠に隠されたまま。物語はミュウの秘書として同行したすみれがワイン買い付けのためのヨーロッパ旅行(ローマ〜ヴェネチア〜ミラノ〜パリ〜ブルゴーニュ)の後、ギリシャの小さな島で休暇中に「薄い絹のパジャマにビーチ・サンダルという格好」のまま失踪することで急転回する。

    ミュウからの国際電話で非常事態を告げられた「ぼく」は躊躇なくギリシャへ飛ぶ。「すみれの失踪」‥‥そして彼女の部屋に残されたPowerBookで、赤いスーツケースの中に隠されたフロッピー・ディスクの中の「文書1・2」(すみれの手記)を読み、すみれの夢とミュウの14年前の超常体験──スイスの遊園地の観覧車の中に一晩閉じ込められた恐怖で白髪化し、双眼鏡でアパートメントの自分の部屋を覗き視ると、もう1人のミュウ自身(ミュウ2)がスペイン人の男と性交していた!──を知ることになる(この場合もミュウ本人から「ぼく」が直接訊いた話ではない)。つまりすみれは自分の分身(ドッペルゲンガー)を視てしまったというミュウの「怪談」を聞くことで、彼女自身が「ぼく」の分身である可能性に気づいてしまったのだ(触媒としてのミュウ)。ミュウ=ミュウ2と「ぼく=すみれ」の関係が、鏡を間に挟んだ相似形であることに。恐らくミュウも、ギリシャの島に駆けつけた「ぼく」と初対面した瞬間に、そのこと(「初めて会ったような気がしないわ」)に気づいたはずだ。妄想性多重人格者(?)の「ぼく」も、物語のラストで気づいたのではないか。

    「ぼく」とすみれの1人2役説を受け入れれば殆ど全てが合理・論理的に解決出来るし、今まで感じてきた薄いベールで覆われたような異和感も悉く氷解して行く。すみれの写真が1枚もないのも、彼女の部屋に「まともに映る鏡」がないのも、「ぼく」が勃起することは出来てもすみれと性交出来ないのも、3人が一堂に会することが1度もないのも、「ぼく」が彼女のスーツケースの暗証番号(0425)を潜在的に知っていたのも、すみれの両親(ということは彼の父母でもあるわけだ)と会おうとしないのも(両親の来る前に、逃げ帰るようにギリシャの島を後にする)、「ぼく」とすみれが同一人物であるという仮説を受け入れることで全て辻褄が合う。「ぼく」のもう1つの人格に過ぎないことに気づいたすみれは報われない同性愛と分裂した自己愛の狭間で苦しみ抜いた上で、彼女自身(の人格)を自ら消滅させる道を選んだのだろう。言うまでもなく「ぼく」とすみれの対話は「ぼく=すみれ」の独り言(芝居)だし、小鳥遊練無のような「女装マニア」ということになる。それとも「ぼく」は始めから女性‥‥「男装の麗人」あるいは両性具有者(アンドロギュヌス)なのか?

    ギリシャの島から「男装」して脱出したすみれは秘かに日本へ舞い戻り、「ぼく」に為り変わってミュウからの国際電話を受けて再びギリシャへ向かう。小学校教師(男)とすみれの秘書(女)の両立は難しいのではないかと訝しむ人もいるかもしれないが、1人称単数の言説なので、それが事実だという客観性はない。「ぼく」は本当に教師なのだろうか?‥‥この物語全体が「ぼく」1人の妄想世界の産物でないという保証はどこにもない。今まで慣れ親しんできた1人称の「僕」ではなく「ぼく」とカナ表記している点にも注意すべきだ。村上春樹は読者からの素朴の質問に《「僕」と「ぼく」とでは、何かが違うわけです。もちろん変えたのは意図的なことです。何が違うんでしょうね? えーと、ぼくの口からは言えません。あの本の結末は実体のない影であり、音のない残響なのです》と答えているが、確信犯なのは明らかだ。実は作者自らがすみれの口を借りて、小説の最後で種明かしをしている。「あなたはわたし自身であり、わたしはあなた自身なんだって」‥‥これをメタファではなく事実として受け取ること。その時、奇妙な3角関係の失恋物語は全く別の相貌を現わす。

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    1人称単数で書かれた小説が如何に信用出来ないかを最初に指摘したのはホルヘ・ルイス・ボルヘスである。「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」の冒頭で披瀝される僚友アドルフォ・ビオイ=カサーレスとの有名な議論、《語り手が事実を省略もしくは歪曲し、様々な矛盾をおかすために、少数の読者しか──ごく少数の読者しか──恐るべき、あるいは平凡な現実を推測し得ない、1人称形式の小説の執筆について‥‥》で言及されている「小説」とは、ボルヘスをして「完璧な小説」と言わしめたA・ビオイ=カサーレスの中編『モレルの発明』(1940)のことを暗に指す。絶海の孤島に辿り着いた「私」が体験する未曾有のSF幻想譚。「私」とモレルとフォスティーヌの奇妙な3角関係。「私」の記述する内容を真に受けて驚く前に、まず「語り手」の信憑性の方を疑ってみるべきである。荒唐無稽な物語であればあるほど「頭のオカシイ男」のホラ話ではないかと疑ってみること。

    現実生活では無闇に他人の話を信用すべきでないと日々自戒しているのにも拘らず、フィクションの中の「私の告白」は、なぜか無防備に信じてしまう傾向がある。それはフィクションの中のフィクションという「物語」の内包する根源的な重層性(2重構造)と密接に拘っている。作者や主人公(話者)が直接自己の体験を語るのではなく、「私」が第三者から聞いた奇妙な話を物語るという「入れ子構造」。ロラン・バルトも《問題は物語ることではなく、人が物語っていると物語ることだ》と書いているように、単に頭のオカシイ男の「ホラ話」ではないかという疑念が逆に「小説」のリアリティを保証する。その結果、物語が幻想〜SF的になってしまうのは当然の帰結で、たとえばカート・ヴォネガットのSF小説は殆ど、この形式で書かれている。もっとも他の例を引くまでもなく、他ならぬボルヘスの短篇「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」それ自体が1人称形式で書かれているという笑撃(?)のオチが、言葉で描かれた「幻想王国」を強固に額装しているのだが。

    この油断ならぬ1人称形式は〈意識の流れ〉〜ヌーヴォ・ロマンの発明→実験によって3人称にも応用可能となった。何故なら〈意識の流れ〉──登場人物A・B・C‥‥の意識の中に自由に出入りして、A・B・C‥‥の視点で主観的に思考(内的独白)する20世紀の方法論──とは3人称(複数)を1人称的視点で描写する試みなのだから(たとえばマンディアルグの『オートバイ』(1963)の金髪美女ヒロイン、レベッカ・ニュル嬢の思考は事実認識上で明らかに矛盾・錯綜しているし、ロブ=グリエの『嫉妬』(1957)の語り手の視線は意図的に著しく歪められている)。『モレルの発明』の「訳者解説」で清水徹氏は《「髭の女」であるモレルにとってフォスティーヌが「接近不能」であるとは、実はモレルが男装した同性愛の女だったということを意味するのか?》と、まるで『スプートニクの恋人』の「謎解き」を予見するかのような文章を残している。ここまで書けば村上春樹氏が『モレルの発明』を読んでいない可能性は限りなくゼロに近いでしょう。

    「私」の物語はSF&幻想性を強めて、複雑・怪奇的にならざるを得ないが、エンタテインメントとしてのミステリィに場を移すと「叙述トリック」という形式に落ち着く。この手の推理小説で世界で一番有名なのはアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』(1926)でしょう。読了した誰もがアッと驚くと同時に「ルール違反だ!」と叫ぶ(?)、ワトスン=ホームズものの裏をかく「叙述トリック」の嚆矢‥‥毀誉褒貶、たとえ何と言われようと最初に書いちゃった人の勝ちです。その独創的な手法は手を替え品を替え、今ではミステリィの1ジャンルとして定着している。タイトルに偽りありの『ハサミ男』(殊能将之 1999)と、それを高度に複雑・作為化した『鏡の中は日曜日』(2001)、逆にシンプルな故に美しい『今はもうない』(森博嗣 1998)、過去と現在を並記することで叙述トリックを巧妙に仕掛ける『水車館の殺人』(綾辻行人 1988)、ミステリィではないけれど完璧な叙述トリックの傑作短篇「ジャムの真昼」(皆川博子 2000)‥‥その気になって捜せば、孤島の海辺に打ち上げられた不思議な漂着物のようにゴロゴロ見つかるだろう。

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    1人称単数の語り(騙り?)には気をつけろと再三釘を刺しておきながら、その度にまんまとダマされてしまうのだから、ミステリィ読みは辞められない、止まらない。逆に言えばエンタテインメント性の砂糖や油脂で被覆された「叙述トリック」というスナック菓子は、その分気楽に頬張れるけれど、幻想・SF的色彩の濃い純文学作品──『モレルの発明』や『スプートニクの恋人』はゴシック・ロマン〜サイコ・スリラー的な薄気味悪さが際立ち、ボルヘス言うところの「ごく少数の読者」を暗い井戸の底へ突き落とす。ラストで自分の「異常性」に漸く気づいたらしい「ぼく」(K)は幻想の中ですみれ──スミレ(pansy)には「同性愛の男」という意味もある。先に引用した清水徹氏の言葉を借りれば、《実はすみれが女装した同性愛の男だったということを意味するのか?》となる──と共に孤独な「生=死」を生きるしかないのか‥‥それとも、精神科医の診断を仰ぐべきなのでしょうか。

    「スプートニク」(спутник)とはロシア語で「衛星」のことだが、なぜかミュウは語源的な意味の「旅の連れ」(Traveling Companion)の方に受け取って不思議がっている。恋人ミュウという「地球」の周りを回る「衛星」としてのすみれのイメージも、一生に1度だけ出会う軌道の異なる2つの「衛星」に修正される。ミュウが閉じ込められた夜の観覧車が「衛星」のアナロジーならば、ミュウ2の棲む「地球2」は幻影の星ということになる。ミュウとミュウ2、「ぼく」とすみれの関係が相似形ならば、恋人すみれも幽霊のような幻の存在(喪失と幻視による空洞化)になる。すみれを失った「ぼく」と、ミュウ2を視てしまったことで白髪化したミュウは、ライカ犬の「死」を封印した柩として暗黒の宇宙空間を彷徨い続けるスプートニク2号のように、お互いに空虚な内面を抱えた「抜け殻」として残りの「生」を全うする他ない。「スプートニクの恋人」とは、すみれから見た恋人ミュウと「ぼく」から見た幻のすみれを指すが、3人は「旅の連れ」でもある。「地球」(という現実)を周回する「ぼく」とミュウという孤独な「双子衛星」も2度と交わることはない。

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    • 記事に以下の文章を追加しました‥‥すみれ(pansy)には「同性愛の男」という意味もある。先に引用した清水徹氏の言葉を借りれば、《実はすみれが女装した同性愛の男だったということを意味するのか?》となる(2006-01-31)

    • 閲覧数が1万PVに達したのを機に、記事を改稿(手直し)しました。少し読みやすくなったかしら^^;(2018-10-09)

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    スプートニクの恋人

    • 著者:村上 春樹
    • 出版社:講談社
    • 発売日:1999/04/20
    • メディア:単行本
    • 内容:22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。そして勢いをひとつまみもゆるめることなく大洋を吹きわたり、アンコールワットを無慈悲に崩し、インドの森...


    モレルの発明

    • 著者:アドルフォ=ビオイ・カサーレス(Adolfo Bioy Casares)/ 清水 徹+牛島 信明(訳)
    • 出版社:水声社
    • 発売日:2008/09/30
    • メディア:単行本
    • 目次:序文(ホルヘ・ルイス・ボルヘス)/ モレルの発明 / 訳者解説(清水 徹)


    伝奇集

    • 著者:ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)/ 鼓 直(訳)
    • 出版社:岩波書店
    • 発売日:1993/11/16
    • メディア:文庫
    • 目次:八岐の園 プロローグ / トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス / アル・ムターシムを求めて /『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール / 円環の廃墟 / バビロニアのくじ / ハーバート・クエインの作品の検討 / バベルの図書館 / 八岐の園 // 工匠集 / プロローグ / 記憶の人、フネス / 刀の形 / 裏切り者と英雄のテーマ / 死とコンパス