• ドイツ機はどんどん接近してくる。目の前にきたやつはメッサーシュミットの白い機体と青空に反射してくっきりと翼にうきあがっている黒い鍵十字しか見えない。わたしはすばやく右左を見たが、無数の機体と鍵十字が目の前にちらちらし、最後には鍵十字と白い雲しか見えなくなった。鍵十字には腕があり、その腕が組み合わされ、わたしの「剣闘士」の周囲をぐるぐるまわって踊りはじめた。一方ではメッサーシュミットのエンジンがうなり声で愉快に合唱しているのが聞える。こいつらは「オレンジとレモンの遊び」をしているんだ。2機編隊を組んだメッサーシュミットは左右にさっと分かれると、わたしの前でまた合流して攻撃をかけてくる。翼をふり、方向を変え、爪先だって踊り、2機がそろって機首を右にむけ左にむける。「オレンジにレモン、セント・クレメンツの鐘が歌ったよ」とエンジンが歌っている。
    ロアルド・ダール 「お茶の子さいさい」


深夜にTVをザッピングしていたら、小鳩くるみ嬢が「マザー・グース」の講義をしている。「マザー・グースの世界」(NHK 教育)──ちょうど〈ロンドン橋おちる〉のパートが終わって、〈オレンジとレモン〉が始まるところだった。原詩の解説、日本語訳詞、遊び方‥‥と、女子生徒の前で授業をした後で実際に歌って遊んでみせる趣向。これには眠気も一瞬で醒めましたね。というのも、以前〈オレンジとレモン〉について調べようとした際に、谷川俊太郎訳『マザー・グースのうた』(草思社 1976)に載っていた〈オレンジとレモン〉の唄が、全4巻336篇を集大成(訳詞・原詩・解説・総索引つき)した文庫版『マザー・グース』(講談社 1981)に何故か収録されていなかったので、長年疑問に思っていたからだ。それが先夜、なぜ教会の鐘の音が「オレンジとレモン」と鳴る(聴こえる?)のか、どうして最後に(子供たちの)首がチョン斬られるのか、どんな遊び唄なのか?‥‥という長年の疑問が僅か10数分で見事に氷解してしまった。

鷲津名都江(aka 小鳩くるみ)に感謝感激‥‥という訳で図書館で検索してみると、彼女は「マザー・グース」に関する本を既に何冊も出版しているし(実際に3年半ロンドン留学もしている)、英語原詩&日本語詞で歌った「マザー・グース」のCDも昨年2月にリリースしたばかり。小鳩くるみと言えば30年以上前のTVで、少女童謡歌手というよりは「歌のおねえさん」──別役実の「不条理童話」を朗読しては泣いていた清純派女優の田島令子と並んでNHKの幼児番組でお馴染みの「姉キャラ」だった──や『エースをねらえ!』に続いて上戸彩主演で昨年4月から実写ドラマ化(ブルマじゃないの?)された『アタック No.1』のヒロイン鮎原こずえ役(声優)で活躍していた。あれから幾星霜‥‥そんな彼女が鷲津名都江(目白大教授)として今、教壇に立って学生たちに「マザー・グース」を教えている。彼女を夢先案内猫に〈オレンジとレモン〉を味わってみよう。

  • Oranges and Lemons, Say the bells of St. Clement's.
    You owe me five farthings, Say the bells of St. Martin's.
    When will you pay me? Say the bells of Old Bailey.
    When I grow rich, Say the bells of Shoreditch.
    When will that be? Say the bells of Stepney.
    I'm sure I don't know, Says the great bell at Bow.
    Here come a candle to light you to bed,
    Here come a chopper to chop off your head.

    「オレンジとレモン」と 鐘ならすよ セント・クレメント
    「5ファージング貸した」と 鐘ならすよ セント・マーチン
    「いつ払うのか?」と 鐘ならすよ オールド・ベイリー
    「払えるとき」と 鐘ならすよ ショーディッチ
    「それはいつ?」と 鐘ならすよ ステップニー
    「知るもんか」と 鐘ならすよ ボウ
     ベッドへと照らす ろうそくが来るぞ!
     ホラ おまえの首をはねに 首切り人来るぞ!
    (訳・鷲津 名都江)


『マザー・グースをくちずさんで』(求龍堂 1995)は副題に「英国童謡散歩」とあるように、豊富なカラー写真や図版、イラスト(絵本)、楽譜、原詩、日本語詞、なぞなぞ、案内地図(ロンドン市内)、エッセイ‥‥を所狭しと詰め込んだ大型ムック本。監修・文の鷲津名都江の他に谷川俊太郎や堀内誠一が文章を寄せている。『マザー・グースをたずねて』(筑摩書房 1996)は朝日新聞日曜版に1年間連載(1995ー96)されていたコラム(全51篇)を1冊に纏めたもので、見開き各2ページに文(2篇)と、カラー写真や図版を交互に挟み込んだカラフルなエッセイ集。著者はロンドン留学中の最後の夏休みに「マザー・グース」縁の地を訪ね歩き、取材〜リサーチを重ねた。この旅行中に撮った多くの写真が本書にも掲載されているが、3年半の留学中に撮り溜めた写真(フィルム)は何と4000枚以上にも及ぶという。

『よもう うたおう! マザーグース』(講談社 2004)は「マザー・グース」の楽譜と原詩、日本語詞、イラスト、コラムを1年(12ヵ月)に振り分けて再構成した横長の楽譜&詩歌集。〈オレンジとレモン〉の唄は10月に入っている。恐らく同名のCDと連動した企画本だと思われるが、著者の日本語詞は実際に歌うことも考えて訳されている──その点が他の訳者の「日本語詞」とは一味違う──ので、メロディの付いている唄の多くは殆どそのまま「歌詞」として歌える。『よりぬきマザーグース』(岩波書店 2000)は谷川俊太郎訳の「マザー・グース」の中から彼女自身が50篇を厳選したベスト版。英語詩も併録、巻末に編者の短い「解説」も付いた〈岩波少年文庫〉の中の1冊である。草思社版『マザー・グースのうた 第4集』に入っていた〈オレンジとレモン〉も再録されているので、参考までに引用しておきましょう。

  • オレンジとレモン セント・クレメントのかねはいう
    おまえにゃ5ファージングのかしがある セント・マーティンのかねはいう
    いつになったらかえすのかね? オールド・ベイリーのかねはいう
    おかねもちになってから ショアディッチのかねはいう
    それはいったいいつのこと? ステプニーのかねはいう
    わたしにゃけんとうもつかないね バウのおおきなかねはいう
    さあ ろうそくだ ベッドにつれてくぞ
    さあ まさかりだ くびちょんぎるぞ
    (訳・谷川 俊太郎)


〈オレンジとレモン〉の日本語詞の多くは「‥‥の鐘が言う」と直訳されている。なるほど2連目以降の歌詞は、ロンドン市内の教会の鐘を擬人化した些細な借金をめぐる問答になっているが、そう解釈すると冒頭の「オレンジとレモン」と話が繋がらない(オレンジとレモンを買うために5ファージングの金を借りたのだろうか?‥‥いずれにしても、百円程度のネコババで首をチョン斬られては堪らない!)。この唄のロング・ヴァージョンには「パンケーキにフリッター」とか「棒キャンディ2本にリンゴ1個」とか「ツルツル頭の神父さん」とか「白いエプロンのメイドたち」とか‥‥全部で16もの教会の鐘が鳴り響くのだから。想うに教会の鐘は、この唄が作られる以前から鳴っていたはずである。毎日定刻に鳴り響く鐘の音を聴きながら遊んでいた当時の子供たちが、その鐘の調べに合わせてメロディを口ずさんだ、地中海からの商船がロンドン橋やテムズ川河岸にオレンジやレモンを荷揚げしていたことに因んで「歌詞」を付けた、と考えられなくもない。

実際に教会の鐘の音が「オレンジとレモン」と聴こえるはずはないけれど、そのモデルとなったセント・クレメント教会の2説あるうちの1つ──もう1つはロンドン橋近くにあるイーストチープ(Eastcheap)の教会──、ストランド(Strand)のセント・クレメント・ディーンズ教会の鐘は、1日に4回も〈オレンジとレモン〉のメロディを鳴らすというのだから、「オレンジとレモンと聴こえる」と意訳しても強ち間違いではないでしょう。今では逆に教会の方が〈オレンジとレモン〉の唄に阿って、3月末の「特別礼拝」後に子供たちが〈オレンジとレモン〉を歌ったり、牧師がオレンジとレモンを配ったりしているという現状を慮ると、《「オレンジとレモン」と鐘ならすよ‥‥》という鷲津訳は安易な擬人化を排し、想像力の可能性を示唆した絶妙な言い回し(日本語訳詞)だと思う。ジュヴィナイル・ファンタジーの傑作、アラン・ガーナーの『ふくろう模様の皿』(評論社 1979)を挙げるまでもなく、あるものが別のものに見えたり聴こえたりするのは子供たちの持つ想像力の特権だからだ。

「マザー・グース」の唄は映画やコミック、小説、演劇、音楽、コマーシャル、新聞などに様々な形で引用されている。洋楽に限ってみてもS&Gの〈Scarborough Fair〉やTotoの〈Georgie Porgie〉‥‥The Beatlesの〈I Am The Walrus〉の中に出て来る「卵男」(Eggman)──『鏡の国のアリス』に登場する有名なハンプティ・ダンプティ(Humpty Dumpty)も元々は「マザー・グース」のナゾナゾ唄だった。アルバムで言うと捻くれブリティッシュ・ポップの至宝、XTCの《Oranges & Lemons》(Virgin 1989)‥‥ところがアルバムの中に〈Oranges & Lemons〉という曲は入っていない。Led Zeppelinの〈聖なる館〉やPJ Harveyの〈Dry〉など‥‥アルバム・タイトル曲が、そのアルバムに収録されていない──意図的というより、その多くはアナログ時代の時間的制約によるもので、大抵は次作に優先収録される──こと自体は別に珍しくないし、そもそも始めからタイトル曲が存在しないことも少なくないのだが。

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XTCの場合は、前作《Skylarking》(1986)の中の曲〈Ballet For A Rainy Day〉の歌い出し部分に「Orange and Lemon...」というフレーズが出て来るだけである。このアルバムは所属レコード会社が要請したプロデューサ、Tod Rungrenとの確執が取り沙汰された問題作だっただけに、もしかしたらAndy Partridgeはこのアルバムを〈Oranges & Lemons〉のタイトルで出したかったのかもしれない(そもそも《Skylarking》というタイトル自体が「巫山戯て」いる)。勝手な揣摩臆測は兎も角、その3年後にリリースされた《Oranges & Lemons》はアナログ2枚組の《English Settlement》(1982)と並ぶ、前作のウップンを大爆発させた傑作アルバムになっている。ところで少々話が脱線〜混線するけれど、「マザー・グース」の唄から連想したのは〈Ballet For A Rainy Day〉ではなく、同じXTCの《The Big Express》(1984)の中の〈Seagulls Screaming Kiss Her, Kiss Her〉という曲の方だったと言ったら、貴方は驚くでしょうか?

雨の海辺、船上デート、躊躇い勝ちな彼女が「ボク」の傍に坐っている。波は絵の具で塗られたみたいで、海はドンヨリと薄暗い。黒い海岸線は凪いでいて、空ではカモメたちが啼いている──「キス、ハー、キス、ハー」(彼女にキスしろ、キスしろ!)と。英国らしい暗鬱な天候、鬱屈した出口なしのサウンド(間奏のユーフォニアム・ソロが効いている)、モンモンと煩悶する欲情‥‥カモメの啼き声が強迫観念のように内気な「ボク」に襲いかかって来る。一種の極限状態の中で「啼き声」が、まるで空耳アワーや幻聴のように聴こえてしまう。この曲を作曲していた時に、少年時代に馴れ親しんだ〈オレンジとレモン〉のメロディ(鐘の音)がAndy Partridgeの頭の片隅で鳴り響いていたのではないか!‥‥「ボク」は彼女にキス出来たのだろうか。〈オレンジとレモン〉の唄で仲睦まじく遊んでいた幼年期とは打って変わって、思春期の男女交際は洋の東西を問わず難しいものですね。

《English Settlement》に収録されている〈Senses Working Overtime〉という曲の最終連には《trying to taste the difference 'tween the lemons and limes, the pain and the pleasure and the church bells softly chime...》という印象的なフレーズもあった。過重労働で躰はクタクタに疲れているけれど、逆に精神は昂っていて、五感(視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚)が異常に冴え渡っている(所謂ランナーズ・ハイ)状態を歌った万能感漲るクレイジーな英国風牧歌で、フットボール状の地球を宇宙へ蹴り跳ばしたり、ビスケット型の地球を齧ったり?‥‥。「オレンジとレモン」ならぬ「レモンとライム」の違いを味わった後で「教会の鐘が優しく鳴る‥‥」というのだから、この曲にも〈オレンジとレモン〉の甘酸っぱい記憶や柑橘系の芳香が詰まっているのかもしれません(カモメの「空耳」より「レモンとライム」の違いの方が説得力あるって?)。

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〈オレンジとレモン〉を味わう際に、ジョージ・オーウェルの『1984年』は欠かせない。1度でも、この近未来SF小説を読んだことのある人なら憶えているだろう。単に作中に「オレンジとレモン」の唄が出て来るだけでなく、物語の通低音として、不穏なBGMのようにストーリの裏で絶えず流れていたことに‥‥。それどころか「オレンジとレモン」は主人公にとって暗示的な意味を持つ。『オーウェルのマザー・グース』(平凡社 1998)の著者・川端康雄のように「オレンジとレモン」の唄の内容通りにストーリが展開して行くという論考もあるくらいだ。ちょうどアガサ・クリスティのミステリィや、あるジャズの曲と同調して展開するサルトルの『嘔吐』みたいに?‥‥。《ウィンストンはくたくたに疲れてゼラチンのようになっていた。(‥‥中略)あらゆる感覚は研ぎ澄まされたように鋭くなった》という文章は、XTCの〈Senses Working Overtime〉とも逆シンクロしている。ユートピアとディストピアの違いはあるけれど、当然Andy Partridgeは『1984年』も読んでいるはずだ。

ヴァージン時代のアルバム全11タイトル──XTCのオリジナル盤10+変名(The Dukes Of Stratosphear名義)1枚──は2001年にリマスターCD化されている。音質的には向上したもののインナー・スリーヴが、お粗末この上なかった。アナログ盤の仕様を忠実に再現したと言えば聞こえは良いけれど、LPジャケットを単に縮小コピーしただけの手抜きスリーヴ(8頁)で、アルバムによっては歌詞部分の文字が完全に潰れてしまって判読出来ない。《English Settlement》に至っては日本盤歌詞カードのコピーを使用するという為体。一方、国内リマスター盤は「紙ジャケ仕様」で、どっちもどっちの悩みどころ。日本人リスナーは特に紙ジャケCDを有り難がっているようだが、LP盤と勝手が違って意外とCDが取り出し難いし、一部マニアの欲しがるレア商品(帯つき!)という以外、殆ど魅力が感じられないからだ。今回〈Seagulls Screaming...〉や「Orange and Lemon...」の歌詞を確認するためにレコード棚の奥から、蒸気機関車の車輪を象った変形ジャケやラピスラズリ色のアナログ盤を引っ張り出さなければならなかった。

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マザー・グースをくちずさんで ── 英国童謡散歩

  • 著者:鷲津 名都江
  • 出版社:求龍堂
  • 発売日:1995/12
  • メディア:大型本
  • 目次:はじめに「現代に生きるマザー・グース」/ マザー・グース ビジュアル散歩 / うたうマザー・グース、読むマザー・グース / マザー・グースの故郷イギリス / マザー・グースのロンドンガイド / ロンドン・ガイドマップ / マザー・グースをつかまえた!/ ユニークな主人公たち / 画家がとらえたマザー・グース / マザー・グースのナンセン...スと残酷性 / マザー・グースに魅せられた人々─マザー・グース小史─ / 2冊のアリスとマザー・グース / 男と女のマザー・グース / ガイドブック / 索引 / あとがきにかえて「ばらはあかい」

マザー・グースをたずねて ── 英国への招待

  • 著者:鷲津 名都江
  • 出版社:筑摩書房
  • 発売日:1996/06/10
  • メディア:単行本
  • 目次:英国への招待 / キラキラ星 / 猫にバイオリン / バレンタイン・デー / ネコちゃん、ネコちゃん / パンケーキ・デー / ブラック・シープ / ラッパ水仙 / オレンジとレモン / アリスの中のマザー・グース / グッド・フライデー / 丘を越えて / メイ・クィーン / メイ・ポール・ダンス / ハンプティ・ダンプティ / 花嫁の必需品 / リーズのおばあさん / ロン...

よもう うたおう ! マザーグース

  • 著者:鷲津 名都江
  • 出版社:講談社
  • 発売日:2004/12/20
  • メディア:単行本
  • Songs: A Man Of Words / Twinkle, Twinkle, Little Star / Humpty Cumpty / I Saw Three Ships / I Had A Little Nut Tree / One, Two, Three, Four, Five / Ring The Bell! / Daffy-Down Dilly / Roses ...


Oranges & Lemons

  • Artist: XTC
  • Label: Virgin
  • Date: 2001/06/11
  • Media: Audio CD
  • Songs: Garden Of Earthly Delights / Mayor Of Simpleton / King For A Day / Here Comes President Kill Again / Loving / Poor Skeleton Steps Out / One Of The Millions / Scarecrow People / Merely A Man / Cynical Days / Across This Antheap / Hold Me .My Daddy / Pink Thing / Minia..ture Sun / Chalkhills And Children


1984年

  • 著者:ジョージ・オーウェル (George Orwell) / 新庄 哲夫(訳)
  • 出版社:早川書房
  • 発売日:1972/02/15
  • メディア:文庫


ヘンリー・シュガーのわくわくする話

  • 著者:ロアルド・ダール(Roald Dahl)/ 小野 章(訳)
  • 出版社:評論社
  • 発売日:1979/03/10
  • メディア:単行本
  • 目次:動物と話した少年 / ヒッチ=ハイカー / 次の物語の覚え書 / ミルデンホールの宝物 / 白鳥 / ヘンリー・シュガーのわくわくする話 / 一休み / お茶の子さいさい / 訳者あとがき