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無垢なる芽生のためのユートピア [b o o k s]



  • その花を摘み取れ、と声がする。その花を摘み取れ。その花を摘み取れ。/ 俺はその声に逆らえない。何よりも慕わしく懐かしいその声に逆らうすべを知らない。逆らおうと思えたためしすらない。/ その花を摘み取れ。その花を摘み取れ。その花を摘んで持って帰れ。/ 花 苑の、まだ誰も足を踏み入れていない領域に、俺は一歩足を進める。俺の足が花苑を踏み荒らす。俺の手がくれないの薔薇に伸び、その花を毟り取る。俺の名前の花を毟り取る。花を奪われた薔薇の木は黒く萎れて枯れていく。俺の心、俺の意志、俺の自由、俺の夢が手折られ、摘み取られていくのがわかる。胸が痛い。胸郭に根を張った花を引き抜いていくかのようだ。俺は手当たり次第に花を手折る。目が覚めたとき、俺は胸の上に置いた両手いっぱいに薔薇の花を抱えている。それは俺の胸から噴き出した血のようだ。俺の頬は涙で濡れている。目の前にいる人に俺は花を差し出す。その人は首を伸ばし、俺の両手に顔を埋めて、がつがつと花を啖う。俺の心臓の血を啖う。
    川野 芽生 「無垢なる花たちのためのユートピア」


  • ■ 無垢なる花たちのためのユートピア(東京創元社 2022)川野 芽生
  • 歌集『Lilith』で第65回現代歌人協会賞を受賞した歌人による初の小説集。全6篇中、「無垢なる花たちのためのユートピア」 「白昼夢通信」 「いつか明ける夜を」 「最果ての実り」 の3篇は文芸誌に掲載されたもの。「人形街」 「卒業の終わり」 の2篇は書き下ろしである。表題作は長く続く地上の戦争から逃れて天上界の楽園〈空庭〉を目差す箱船に乗った少年たち(花の名前で呼ばれる)の物語だが、心優しげなタイトルに反して、ディストピアとして描かれる。「The Nowhere Garden For The Innocent」 という英題の方が分かりやすい。ユートピアはどこにも存在しないけれど、ディストピアは実在しているのだ。女性たちの手紙で構成された書簡体の 「白昼夢通信」 。人間が人形化する不条理メルヘンの 「人形街」 。大戦争後にサイボーグとフローラが邂逅する 「最果ての実り」 。夜明けに滅ぶ異世界の物語 「いつか明ける夜を」 。女性だけが感染死する近未来ディストピア社会を描く 「卒業の終わり」 。単行本の白い帯には《鋭い知性を芯とした幻想の葩は豊潤な表現力によって可視の存在となる》という皆川博子先生の推薦文が記されている。

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  • □ 無垢なる花たちのためのユートピア(ミステリーズ!vol.102 2020)
  • 矢車菊、白菫、鈴蘭、白百合(寮長)、緋桜、銀杯花、冬薔薇(俺)、花橘、蛇苺、毒草( 勿忘草)、蒲公英、風信子、金雀枝、夏椿、夾竹桃、麒麟草、忍冬、秋桜、海棠‥‥長く続く地上の戦争から逃れて天上界の楽園〈空庭〉を目差す箱船に乗った少年たちは花の名前で呼ばれる。乗員に選ばれた7歳から17歳までの77人の少年たちは7つの寮に分かれて船内で暮らしている。最年長を寮長とする11人が1つの寝室で寝起きし、7人の先生〈至高なる方〉が寮を管理する。ある日、舷から白菫が墜ちた。事故死として葬られるが、矢車菊は自殺を疑う。矢車菊は遺品の手函の中に失くしたビーズのお守り袋を見つけた。黒い髪の束に埋もれるように銀色の鍵が入っていた。運動時間の時に破裂したボールの予備を最下部の倉庫へ取りに行った矢車菊は転がったボールを追い、鍵の架かった扉の前まで行く。鍵を開けて階段を降りると、地下室に毒草が監禁されていた。再び舷から銀杯花が墜ちる。発狂した金雀枝の姿が消え、先生たちのところへ直談判に行った矢車菊も戻らなかった。痛ましい真相を知った冬薔薇たちは「無垢なる花たち」を穢す老導師たちに反旗を翻す。

  • □ 白昼夢通信(Genesis 白昼夢通信 2019)
  • 2人の女性による書簡体小説。美術博物館の図書室でバイトをしていた「のばら」と展覧会「ねむらぬ竜の白昼夢」のカタログを探しに来た瑠璃。2人には秘密があった。「のばら」 は人間が鬼に見える病気で、瑠璃は竜の家系の末裔だった。旅の途上にある瑠璃(私)は夢の中で瑠璃玉を探している。留年して大学を辞めた 「のばら」(わたし)は雪の降る人形つくりの街で、人形師の花嵐と知り合う。お使いを頼まれた彼女は山一つ越えた、年中花が咲いている街に棲む雪柳に人形(のばら)を届けることになる。異母双子妹は人形から魂を払う人形解き師をしていた。多くの雛人形が集まる書き入れ時を前にして、弟子たちが相次いで暇を取ることになり、「のばら」 が人形解きの仕事を手伝うようになる。2人の往復書簡体の中に、大学生の澪が 「くるみ」(実家のぬいぐるみ)に宛てた手紙が挿み込まれる。花嵐の葬儀が執り行われ、姉の魂を封じた硝子瓶を抱いて海へ行った妹の雪柳も戻らなかった。雪柳の工房を引き継いだ「のばら」は瑠璃を迎えに行く(最後から2番目の2通は人形(のばら)が書いていた)。夢の中で書いていた瑠璃の手紙が滲んで判読不明になっていたからだ。

  • □ 人形街(書き下ろし)
  • 街から人が消えた。生者も死者もいなかった。人間は時間が止まったように人形と化し、どの家々の庭にも薔薇が花開いていた。近親婚を繰り返したことで発症した遺伝性の奇病だった。人間離れした美貌が限界点に達した時、一瞬にして彼らを人形に変えたのだ。一人の少女だけが発症を免れた。左腕の火傷が美貌の完全性を損なったことで、彼女は人間に留まった。少女の美貌に畏怖を抱いた隣市の市長は忌避して、初老の司祭に身柄を預ける。妖精のように美しい少女と司祭の奇妙な同居生活。夢を見る司祭と夢を見ない少女。彼の手から磁気カップが滑り落ちて、熱い紅茶が彼女の白い前膊に火ぶくれを作る。腕の火傷、足の痣、足首の捻挫、薔薇の棘の刺し傷‥‥少女の怪我は絶えない。人形のように空虚な少女には司祭の愛が理解出来ない。彼女を打擲するだけでなく、《いずれ治るような傷は、彼と少女の間を永遠に結ぶものにはならない。いっそ脚の一本でも切り落とすか、薬品であの美しい顔を焼いてしまおう》とまで考えた司祭は少女の寝姿を見に行くが、寝間には誰もいなかった。外へ出た少女は月影さす森の中の空き地で自ら人形と化す。

  • □ 最果ての実り(紙魚の手帖 vol.2 2021)
  • 湖で異形の男女が出会う。水中に半ば浸かった男は半機械化したサイボーグ、水中で泳ぐ少女は蔓や葉や蕾や花に覆われたフローラ(植物の化身)だった。大戦争後、人間を含めた動植物は死滅していた。2人が出会って3日目に流星が降った。東のポリスから来た男は曠野と化した遺跡から古代機械の発掘と除去を行っていた。砂に埋もれた都市の廃墟から金属や化学物質、地雷や毒ガスなどの兵器を回収・除去していたが、捜索中に湖の泥土に嵌まり込んで立ち往生していた。西の森から来た少女は木の実を撒き落としながら歩いて繁殖させ、三度目の春を迎えると花季になって恋をする。恋に落ちると、大きな赤い実を結んで種を残す。《頭が大きな真っ赤な実になって、はじけてあたりに撒き散らすのよ。そうして体のほうは枯れる》のだった。少女がくれた木の実を経口摂取した男は生体エネルギーを得て再起動する。湖の中心に沈んでいた金属の箱を少女が回収する。男はポリスに帰ろうとする。少女を探しに来た妹が実を結んで枯れてしまう。「わたしも連れて行って」 と少女は掠れ声で囁くが、その言葉は「彼には木々のざわめきとしか聞こえない」。

  • □ いつか明ける夜を(Genesis 時間飼ってみた 2021)
  • 闇が支配する世界。月明かりを昼と呼び、月光を忌み嫌った人々の遠い昔の物語。神の眷属の最後の一頭である子馬が少女(かれ)を騎り手に選んだ時、「族長の舘には驚愕と怯えの臭いが立ち籠め、人びとの話し声は憂いの重みを帯びて夜露に濡れる庭土に沈み込んだ」。代々の馬は勇者や賢人を伴侶に選んで東に向けた旅立ち、援軍を連れて戻って、地蟲たちから邑を守ったというのに、最後の馬は年端もゆかぬ子供を背に乗せて帰って来たのだ。舘の石壁に刻まれた代々の馬と騎り手の名前。先の英雄(騎り手)は色のある夢を見るという禁忌に触れて追放され、壁面から名前を抹消された。月が現われて、昼と夜とを分かち、時を分かち、天と地に亀裂が生じた。色のある夢を見てしまった少女。ついに障壁が突破され、地蟲たちが邑に攻め込んで来る。少女は馬に騎って、闇の夜を東へ駆ける。曠野を渡って、崖の上に立つ塔に辿り着いた少女は年老いた女から真実を聞かされる。「月が生まれて以来、平地に作られた邑はどれも地蟲に潰されてしまった」。真円の月が沈んで、再び夜が明ける。「プロローグ、少女(1〜10)、英雄(1〜5)、舘」 の断章で構成された異界の滅亡譚である。

  • □ 卒業の終わり(書き下ろし)
  • 雲雀草(私)は命が尽きる前に手記を書く。***女学園は全寮制の一貫校(雪・月・花)で、外界から隔離されている。彼女たちには苗字がなく、卒業すると二度と学園には戻れない。図書館で出会った人気者の月魚は寡黙な友人。〈月〉部3年(9歳)の時に「友達にならない?」と誘われた雨椿とは親友だった。お菓子を作ってくれたり、フェルトのぬいぐるみやワンピースをプレゼントされたりする仲だったが、月魚との関係に嫉妬した雨椿とは次第に気不味くなって行く。卒業した生徒たちは配属先に就職する。本人の希望が叶うことも叶わないこともある。成績や籤引きで決めているのではないかという噂もあった。雨椿は同じ職場で働くことを願ったが、雲雀草は約束を守らなかった。工学アカデミーに就職した雲雀草に、チェーンの飲食店に就職した雨椿から頻繁に手紙が来るようになった。息苦しく、恐怖と嫌悪を感じた手紙を雲雀草は三通目から開封しなかった。職場の同僚のかおりさんが病死して、雨椿からの手紙も来なくなった。交際を申し込まれた若い研究員フジノに誘われて飲み会に行った時、彼の友人イシハラから雨椿が病死したことを知らされる。

    アカデミーに配属されて3年目の5月、無断欠勤していた同僚のあかりさんが職員寮で病死していた。雲雀草は求婚されたフジノから「真相」を聞かされる。何十年か前、《非常に感染力の強い病気が世界中で猛威を振るった。そしてその病気はいまだ治療法が見つかっていない。その病気は、男性には何の症状ももたらさない。しかし女性には致命の病で、七年の間にほとんどの女性が死に絶えた。外部との交流を絶っていた女子修道院や女子寮でのみ、女性は生き延びた。そこで女児だけを隔離して育てる施設、通称「女学園」が各地に作られた。生まれた子供が女性なら、男性と接触しないまま女学園に送られる》‥‥「十八歳で卒業して最長七年。二十五歳が私たちの寿命」だった。学園で受けた教育に何の意味があったのかと自問する雲雀草は花鴉先生に会いたいと思ってネット検索したが、***女学園だけでなく、どの学園の情報も得られなかった。一縷の望みで「手記」を投稿した雲雀草のパソコンに、教師として学園に残った月魚からメッセージが届く。VRチャット空間で2人は会話を交わす。近未来ディストピアとして描かれているが、ラストに仄かな希望が灯る。

  • ■ L i l i t h(書肆侃侃房 2020)川野 芽生
  • 《叙情の品格、少女神の孤独。端正な古語をもって紡ぎ出される清新の青。川野芽生の若さは不思議だ、何度も転生した記憶があるのに違いない》という白い腰巻を纏った川野芽生の第一歌集。〈Lapis-lazuliみがけりからだ削ぎゆかばたましひ見ゆ、と信じたき夜半〉〈うつくしき靴を沓く罪 踊りなす脚なら伐れ、と斧を渡さる〉〈ヴァージニア・ウルフの住みし街に来てねむれり自分ひとりの部屋に〉‥‥2012年から19年までの作品374首は旧仮名遣いなので詠み難いけれど、想像力を刺戟するシュールな短歌はファンタジー界の女戦士を想わせる。帯文を書いた山尾悠子とは母娘ほどの歳の差があるけれど、親交があって親和性も高い。短歌ムック 「眠らない樹 vol.7」(2021)に掲載された2人の「往復書簡」の中で、川野芽生は《私にとっての理想は両性具有──「男でも女でもある」──ではなく、無性──「男でも女でもない」》と綴っている。〈求婚者を鏖にする少女らに嵐とは異界からの喝采〉‥‥山尾悠子の書き下ろし新作は「幻の巨大船に乗り組んで放浪する姉妹の話」らしい。

  • 川野 芽生 偏愛の20冊「短歌ムック ねむらない樹 vol.7」 から)
    • 嵐が丘(新潮文庫)エミリー・ブロンテ
    • カラマーゾフの兄弟(新潮文庫)ドストエフスキー
    • 指輪物語(評論社文庫)J・R・R・トールキン
    • ラピスラズリ(ちくま文庫)山尾 悠子
    • びあんか・うたうら(深夜叢書社)水原 紫苑
    • 塚本邦雄全歌集第一巻(短歌研究文庫)
    • 最後の夢の物語(河出文庫)ダンセイニ
    • ムントゥリャサ通りで(法政大学出版局)ミルチャ・エリアーデ
    • かなしき女王──ケルト幻想作品集(ちくま文庫)フィオナ・マクラウド
    • ハザール事典(創元ライブラリ)ミロラド・パヴィチ
    • パドロ・パラモ(岩波文庫)フアン・ルルフォ
    • 幻獣事典(河出文庫)ホルヘ・ルイス・ボルヘス
    • (文春文庫)皆川 博子
    • 堕ちたる者の書──パラディスの秘録(創元推理文庫)タニス・リー
    • 氷(ちくま文庫)アンナ・カヴァン
    • 夜のみだらな鳥(水声社)ホセ・ドノソ
    • ヒロインズ(C.I.P. Books)ケイト・ザンブレノ
    • ずっとお城で暮らしてる(創元推理文庫)シャーリィ・ジャクスン
    • 重力と恩寵(ちくま文芸文庫)シモーヌ・ヴェイユ
    • 金枝篇(岩波文庫)フレイザー

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    • 皆川博子、山尾悠子、川野芽生の三世代幻想小説家の系譜は最強度の結晶体である

    • 川野芽生のインダヴューが 「書く人」(東京新聞 2022・7・2)に掲載されました^^

    • 「短歌ムック ねむらない樹 vol.7」 掲載の短篇「蟲科病院」は単行本未収録でしたが、『月面文字翻刻一例』(書肆侃侃房 2022)に収録されました(2023・6・20)
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    川野 芽生(Kawano Megumi)

    川野 芽生(Kawano Megumi)

    • 生年月日:1991/12/07(射手座)
    • 出生地:神奈川県
    • 所属:東京大学大学院総合文化研究科在学中
    • 著書:Lilith(書肆侃侃房 2020)/ 無垢なる花たちのためのユートピア(東京創元社 2022)
    • 受賞歴:第29回歌壇賞受賞 / 第65回現代歌人協会賞受賞


    無垢なる花たちのためのユートピア

    無垢なる花たちのためのユートピア

    • 著者:川野 芽生
    • 出版社:東京創元社
    • 発売日:2022/06/21
    • メディア:単行本
    • 目次:無垢なる花たちのためのユートピア / 白昼夢通信 / 人形街 / 最果ての実り / いつか明ける夜を / 卒業の終わり / 解説・石井 千湖


    Lilith

    L i l i t h

    • 著者:川野 芽生
    • 出版社:書肆侃侃房
    • 発売日:2020/09/26
    • メディア:単行本
    • 目次:anywhere / out of / the world / あとがき / 初出一覧 // 栞(石川美南、佐藤弓生、水原紫苑)


    短歌ムック ねむらない樹 vol.7

    短歌ムック ねむらない樹 vol.7

    • 特集:葛原 妙子 / 川野 芽生
    • 出版社:書肆侃侃房
    • 発売日:2021/08/06
    • メディア:ムック
    • 目次:高橋睦郎「僕が知っている葛原さんのこと」/ 石川美南×水原紫苑×睦月都×吉川宏志「時代が葛原妙子に追いついた」/ 尾崎まゆみ 春日いづみ 花山周子 牛山ゆう子 松平盟子 / 帷子つらね 佐原ひかり / 石松佳 井上法子 紀野恵 鈴木一平 / 川野芽生 自筆年譜 / 短歌「燃ゆるものは」/ 小説「蟲科病院」/ 往復書簡 山尾悠子×川野芽生 / ホー・ツーニ...

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