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ムンクの子供たち [a r t]



  • ムンクは《叫び》の幻視体験がどのように訪れたかを、次のように書き残した。/ 友人ふたりと道を歩いていた / 日が沈んだ / 空が俄かに血の色に染まる──そして悲しみの息吹を感じた / 胸 の張り裂けるような苦痛 / ぼくは立ちどまった──塀にもたれた──なにをするのも億劫 / 血のフィヨルドのうえにかかる雲から血が滴る / 友人は歩きつづけたが、ぼくは胸の傷口が開いたまま、震えながら / 立ち尽くした不安に震えながら、凄まじく大きな / 叫び声が大地を貫くのを聴いた / この体験はエーケベルグの高所で日没時にやってきた。エーケベルグはオスロの東に位置する。悪魔に誘惑されたキリストが、高所から眼前に広がる都会を見たのと同じように、ムンクの憎む都会を海を隔てて望めるのはここしかない。絵の中では道路に見えるが実際には小径にすぎず、橋の欄干のようにも見える手すりは、防護柵である。この景色は今日でもほとんど変わっていない。埠頭近辺の工場群をのぞけば、以前とかわらぬオスロのシルエットが姿を現わすだろう。
    スー・プリドー 「神は死んだ、ベルリン」


  • 「ムンク展」(東京都美術館 2018-19)に行って来た。国公立美術館は閉館時刻が早いので、夜間開館している金曜日に行くように心懸けているのだが、今回は諸般の事情で土曜日になってしまった。予め混雑することは覚悟していたものの、都美術館前に出現した地を這う大蛇みたいな長蛇の列に意気消沈‥‥何と「90分待ち」だった。行きがけに図書館から借りて来た『MUNCH』(誠文堂新光社 2018)を携行していたので、幸い時間を持て余すことはなかった。11年前の「ムンク展」(国立西洋美術館 2007-08)は省エネなのか作品保護のためなのか異常に寒かったのとは対照的に、人混みで埋め尽くされた展示室は人熱れで暖かい。入口は黒山の人集りだったので、順路(1~9)は無視せざるを得ない。比較的空いているコーナーを見つけて、ランダムに展示室を徘徊することにした。〈叫び〉〈絶望〉の展示されているコーナーだけは規制ベルトが張られていて近寄れない。間近で鑑賞するには行列に並んで、立ち止まらずに歩き見なければならなかった。

    「ムンクとは誰か」「家族──死と喪失」「夏の夜──孤独と憂鬱」「魂の叫び──不安と絶望」「接吻、吸血鬼、マドンナ」「男と女──愛、嫉妬、別れ」「肖像画」「躍動する風景」「画家の晩年」‥‥エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch 1863-1944)の作品101点を9つのテーマに分けて展示。「ムンクとは誰か」には自画像と共にコダック・カメラで自撮りしたセルフ・ポートレイト(自撮りの元祖?)も出品されている。病弱だった幼少期、母ラウラや姉ソフィエの病死(結核)、ベルリン芸術家協会の招きで開催された個展が1週間で打ち切られた「ムンク事件」、人妻ミリー・タウログや恋人トゥラ・ラーセンとの恋愛と別離、アルコール依存と神経症、複数の絵画を連作として展示することで鑑賞者に新たなイメージを喚起させる「生命のフリーズ」‥‥〈病める子〉〈メランコリー〉〈叫び〉〈赤い蔦〉〈マドンナ〉〈吸血鬼〉〈生命のダンス〉などの代表作は非レアリスムで表現主義的な色合いの濃い作風だが、ムンクの切実な実体験から生まれた「魂の叫び」である。

    全裸のムンクの背後に広がる影が堕天使の黒い翼のように見える〈地獄の自画像〉。病床の姉ソフィエと俯く母ラウラをエッチングで描いた〈病める子〉。海辺で物思いに耽けって右手で頬杖する男の〈メランコリー〉。フィヨルド特有の丸い石の奥で下半身を水に浸かった〈夏の夜、人魚〉。赤いアメーバのような生物に覆われた背後の民家と手前の虚ろな表情の男を対比した〈赤い蔦〉。精子と胎児に囲まれたヌード女性のカラー・リトグラフ〈マドンナ〉。抱き合って男の首にキスする女がカミーラのように見える〈吸血鬼〉。女性に暗殺されたフランス革命の指導者を恋人トゥラ・ラーセンとの諍い(拳銃暴発事件)に重ね合わせた〈マラーの死〉。白衣、赤衣、黒衣の女性(人生の三段階)を多焦点で左から右へ配した〈生命のダンス〉。青と赤の帽子を被って、緑色のタイツを履いた〈青いエプロンを着けた二人の少女〉。針のない柱時計とベッドに挟まれて立つ最晩年の〈自画像、時計とベッドの間〉‥‥地下1階から2階まで、展示作品数は101点と少な目だったが、行列と混雑は途切れることなく、エレヴェータでエントランスに戻ると、開館時間は45分延長されていた。

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  • ▢ ムンク伝(みすず書房 2007)スー・プリドー
  • 英語で書かれたムンク評伝の決定版。著者のスー・プリドーは美術史家で小説家。英国人でありながらノルウェーで洗礼を受け、本書にも登場する蒐集家のトマス・オルセンとヘンリエッタ夫人が大叔父・叔母という恵まれた環境で、幼い頃からムンクの絵画に親しんで来たという。ムンクの残した膨大な日記や手紙、当時の文献や資料をノルウェー語で読めるという強みもある。「ひっこみじあん / 永久に結ばれ / クリスティアニアで過ごした少年期 / 鮮血の幟 / 信仰心の喪失 /「ぼくは画家になろうと思う」/「ブラウンソースはもうたくさん」/ 計算ずくの誘惑 / 朝飯前にちょいと一杯 / 安直な芸術と魂の芸術 / 美徳はペテン / サン=クルー宣言 / 変わり者 / 神は死んだ、ベルリン / 死の表徴 / 魔法を使う刺客 / 生命のダンス / 死と乙女 / 銃撃 / 地獄の自画像 / 狂気の醜い相貌 / 太陽、太陽 / 魂の居場所 / 頽廃芸術 / 舵をとり迎える死」‥‥という全25章のタイトルからも面白さの一端が伝わって来る。読者は19世紀末から20世紀の欧州をムンクと酒を酌み交わして徘徊したかのような臨場感を味わえる。カラー・モノクロ図版(112頁)も豊富。ムンクに興味のある人は必読です。

  • ▢ ムンクへの招待(朝日新聞出版 2018)
  • 美術初心者向けのムック「招待シリーズ」の1冊。「北欧、ノルウェーに生まれた」「呼吸し、感じ、悩み、愛する生きた人間を描こう」「飲んだくれた翌日の女性」「同じ絵を何枚も描いた」‥‥大きな文字が躍る巻頭ページは美術入門書というよりも扇情的な女性週刊誌の見出しを想わせなくもない。ルネサンスと印象派を見開き2頁で平易に図解した「西洋絵画を変えた二つの転換期」。重要事項や主要作品を大文字や太字で表記した年譜「ムンクの生涯」。「名画のストーリー」では〈病める子〉〈窓辺の接吻〉〈叫び〉〈生命のダンス〉〈地獄の自画像〉の一部を原寸大で表示。「黒い天使」「ヴァリエーション」「愛のシリーズ」「ポリフォーカス(多焦点)」「自画像の画家」という「ムンクを語るキーワード」で読み解く。ムンクの絵画に描かれた「5人の女性」‥‥ミリー・タウログ、ダグニー・ユール、トゥラ・ラーセン、インゲボルグ・カウリン、ビルギット・プレストーや〈叫び〉の4ヴァージョンを比較検証。ムンク30作品の「誌上ギャラリー」なども収録されている。

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  • 「もし俺がムンクを漫画にするなら純粋な引用のコラージュにする!」 「そりゃいい! 本人たちに語らせるんだな!」 「俺が聞きたいのはムンクやストリンドベリ本人の声であって退屈な批評じゃない!」 「俺は 「独自の教義」 を設けた文章は全て純粋な引用でなくてはならない。描き直し 加筆 厳禁!」 「ムンクは漫画の主人公にするのにうってつけなんだ! やつの描いた物はほぼ全て自伝と呼べる。手紙も日記もメモも絵も版画も油彩画でさえも漫画の貴重な材料なのさ」 「ムンクの日記は本人自らが 「文学的日記」 と呼ぶもので鵜呑みにはできない。だが素晴らしい素材であることには変わりない!」〔‥‥〕「俺が自分のことを語るのはお前と俺が出てくる場面だけさ」 「もう とっとと描いちまえよ!」 「俺が描くものは俺が主観的に捉えたムンクさ。何を入れ何を入れないかは俺の感覚と視覚的解釈で決める」 「まるでパズルのようなすごい作品になるぞ。これまで俺はムンクについての本をしこたま読んできた。積み上げたら数キロメートルの高さになるくらい。これからさらに読むことになるだろう」 「描き上がるまで何年もかかるんじゃないか!」 「まさか! せいぜい1年だろ!」
    ステフン・クヴェーネラン 『MUNCH』


  • ▢ MUNCH(誠文堂新光社 2018)ステフン ・クヴェーネラン
  • ノルウェー・ハウゲスン生まれの漫画家が8年を費やして描いたコミック版ムンク伝。オール・カラーのアメコミ風「グラフィック・ノヴェル」だが、クセの強い絵柄で登場キャラは悪意があるのではないかというほどにデフォルメされている。美青年だったというエドヴァルド・ムンクの顎は大きく突き出ているし、アウグスト・ストリンドベリは頭でっかちの川端康成みたい。モデルになった愛人ミリー・タウロヴや恋人ダーグニィ・ユールなども美女とは言い難い。元々ムンクのファンだった著者は「積み上げたら数キロメートルの高さになるくらい」膨大な本や資料を読み込んで来たそうで、作中にはムンクの日記や手紙、親族や友人たちの手記なども引用され、作者本人と漫画家仲間のラーシュ・フィスケも出演する。「MUNCH」は2005年、ムンク博物館を訪れた2人が本書を発案したプロローグに続き、ベルリン美術家協会に招聘されて個展を開いた1892年から始まる。1909年、祖国ノルウェーに帰国してからは余り描かれていない。枇谷玲子は「訳者あとがき」の中で、関心のある読者にスー・プリドーの『ムンク伝』を読むよう強く薦めている。

  • ▢ 赤い蔓草(COM 1968)岡田 史子
  • 「赤い蔓草」の主人公はエドワルド・ブロッホ。母親と妹を結核で失い、父親は医師で、エドワルドは画家志望の青年という設定。表題や扉絵の筆致から、エドヴァルド・ムンクをモデルにしていることは一目瞭然である。ムンクの半生を忠実に描いているので、歴史的な事実に準じている分だけ、作者の自由なファンタジーは押さえ込まれている。むしろムンクの幻想性に依拠していると言った方が正確かもしれない。ムンクの素描のような不安感を増幅する描線にも、岡田史子の嗜好が色濃く反映されている。彼女が描く白目のない大きな黒目の男女はムンクの影響なのかもしれない。「第1回COM新人賞」の選考会で、選考委員の1人だった石森章太郎は次のような発言をしていた。「確かに観念の世界だ。観念マンガというんですかね。僕なんか、岡田さんを真っ先に推さなきゃいけないんだろうけど、この世界しか描けないということに、どうも引っかかるんだな」‥‥ムンクの半生をムンク風に描いた「赤い蔓草」は石森氏への返答だったのだろうか。

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    • 11年前に開催された〈ムンク展〉(国立西洋美術館 2007-08)、ムンクの生涯、代表作品の詳細などは過去記事の〈ムンクの娘〉を参照して下さい^^;

    • 『MUNCH』の訳者・枇谷玲子「祝MUNCH発売! 訳者より作品紹介」も参照してね

    • スー・プリドーの『ムンク伝』(みすず書房 2007)は再録(一部改稿・加筆)です

    • ミリー・タウログ、ミリー・タウロヴ、ミリー・タウロウなど‥‥ムンク展、画集、伝記によって異なる日本語の人名表記(Milly Thaulow)は敢えて統一していません
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    ムンク展 ── 共鳴する魂の叫び

    ムンク展 ── 共鳴する魂の叫び

    • アーティスト:エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)
    • 会場:東京都美術館
    • 会期:2018/10/27 - 2019/01/20
    • メディア:絵画 / 版画 / 写真
    • 展示構成:ムンクとは誰か / 家族──死と喪失 / 夏の夜──孤独と憂鬱 / 魂の叫び──不安と絶望 / 接吻、吸血鬼、マドンナ / 男と女──愛、嫉妬、別れ / 肖像画 / 躍動する風景 / 画家の晩年


    ムンク伝

    ムンク伝

    • 著者:スー・プリドー(Sue Prideaux)/ 木下 哲夫(訳)
    • 出版社:みすず書房
    • 発売日:2007/08/10
    • メディア:単行本
    • 目次:ひっこみじあん / 永久に結ばれ / クリスティアニアで過ごした少年期 / 鮮血の幟 / 信仰心の喪失 /「ぼくは画家になろうと思う」/「ブラウンソースはもうたくさん」/ 計算ずくの誘惑 / 朝飯前にちょいと一杯 / 安直な芸術と魂の芸術 / 美徳はペテン / サン=クルー宣言 / 変わり者 / 神は死んだ、ベルリン / 死の表徴 / 魔法を使う刺客 / 生命のダンス / 死と乙女 / 銃撃 / 地獄の自画像 / 狂気の醜い相貌 / 太陽、太陽 / 魂の居場所 / ...


    ムンクへの招待

    ムンクへの招待

    • 監修・執筆:後藤 文子
    • 出版社:朝日新聞出版
    • 発売日:2018/10/26
    • メディア:単行本
    • 目次:What’sムンク? / 西洋美術史の中のムンク ムンクが部屋に飾りにくい絵を描いた理由 / ムンクの生涯 / ターニングポイント 名画のストーリー (病める子 / 窓辺の接吻 / 叫び / 生命のダンス / 地獄の自画像)/ 北欧の中のノルウェー バイキングの血はどこへ? 冷めた国民性が、前衛画家ムンクを生んだ / ムンク30作品 誌上ギャラリー / ムンクのモダン・アイ / 生命論 生命とは何か? / ちょっと美術史 ムンクは、どこから来たのか / ...ムンクを巡る人々 19世紀の哲学者「ニーチェ」/ その時、日本は / ムンクへの旅


    MUNCH

    MUNCH

    • 著者:ステフン・クヴェーネラン(Steffen Kverneland)/ 枇谷 玲子(訳)
    • 出版社:誠文堂新光社
    • 発売日:2018/08/06
    • メディア:コミック
    • 内容:世界的に有名な名画のひとつ『叫び』を描いたエドヴァルド・ムンクの伝記グラフィックノベル。ノルウェーで最も権威ある文学賞 "ブラーゲ賞" のノンフィクション作品賞受賞!! 常に向き合い続けた「生と死」、描くことへと突き動かした「狂気」共にその時代を生きた錚々たる芸術家たちの声が、天才画家「ムンク」をあぶりだしていく


    赤い蔓草(岡田史子作品集 1)

    赤い蔓草(岡田史子作品集 1)

    • 著者:岡田 史子
    • 出版社:NTT出版
    • 発売日:1992/12/01
    • メディア:単行本
    • 目次:太陽と骸骨のような少年 / フライハイトと白い骨 / 夏 / ポーヴレト / 天国の花 / ガラス玉 / 赤と青 / サンルームのひるさがり / 春のふしぎ / いずみよいずみ / 胸をだき 首をかしげるヘルマプロディトス / ホリデイ / 赤い蔓草 PART1 / 赤い蔓草 PART2 / ワーレンカ / 夢の中の宮殿 /「岡田史子論」四方田犬彦 / 岡田史子・作品リスト

    コメント(2) 

    コメント 2

    ぶーけ

    人気のある美術展はいつもすごく混雑しますね。^^;
    ムンクは実物を初めてみた時、思っていたよりずっと繊細で驚きました。
    実物は印刷とすごく違いますよね。

    by ぶーけ (2019-02-04 14:19) 

    sknys

    暗く沈んだイメージあったけれど、今展は意外とポップで明るい感じ。
    〈叫び〉が100年後にポップ・アイコン(さけびクン)になってしまうとは、
    ムンク本人も草葉の陰でビックリしているのではないかしら^^;
    by sknys (2019-02-04 20:06) 

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