わたしを猫のそばに残して、彼女はうちに帰り、何本かのマッチとくしゃくしゃにした新聞紙を持って戻ってきた。新聞紙のほうは、まだあけていない母の瀬戸物や装身具を収めた箱から取ってきたのだろう。「さあ、何も怖がることはないのよ。あたしたちの務めだと思いなさい」 猫をくるみ直し、それをかかえて、岩の切れ目から少し行った所にある低木林へわたしを連れていく。「ここなら、なんとかなるわ。景色もいいし、風も防げる。ぴったりの場所だと思わない?」 そう言いながら、新聞紙を重ねた。すぐに、燃やす材料が全然足りないことに気づいて、彼女は乾いた草や葉っぱや小枝を周りからかき集めた。「これで、いいわ」 服から猫を取り出し、火のついていない焚き物の上に横たえる。なぜだか知らないが、わたしの胸はときめいていた。アリソンは猫の下から草を少し引き抜いて、死骸に掛けると、平たい石でマッチを擦り、新聞紙と草の一番乾いた部分に火をつけた。炎がささやかな慰霊碑を包み始めると、彼女はわたしの手を取って、後ろに下がらせた。
ポール・セイヤー 「狂気のやすらぎ」
THE COMFORTS OF MADNESS(4AD 1990)Pale Saints1987年、英リーズで結成されたPale Saints。オリジナル・メンバーはIan Masters(ベース、ヴォーカル)、Graeme Naysmith(ギター)、Chris Cooper(ドラムス)の3人で、デビュー・アルバムをリリースした後、元LushのMeriel Barham(ギター、ヴォーカル)が加入して4人組となる。新体制で2ndアルバム
《In Ribbons》(1992)をリリースするが、1993年に中心人物のIan Mastersが脱退してしまう。John FryerとGil Nortonが共同プロデュースした《The Comforts Of Madness》(タイトルはポール・セイヤーの小説
『狂気のやすらぎ』(1988)から採られている)はノイジーなギター・ポップ・サウンドだったが、Ian Mastersの繊細で内省的なヴォーカルがシューゲイザーとして存在を特徴づけている。〈True Coming Dream〉〈A Deep Sleep For Steven〉は典型的なシューゲイズ・サウンドである。音楽を聴きながら花の匂いを嗅ぐネコの横顔を見つめていると、21世紀のドリーム・ポップがシューゲイザーから派生したのではないかと気づかされる。
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僕は学生時代、三鷹のアパートに住んでいたときに、一匹の雄の子猫を拾った。拾ったというか、アルバイトの帰り、夜中に道を歩いていたら勝手にうしろからにゃあにゃあとついてきて、僕のアパートの部屋にいついてしまったのである。茶色の虎猫で、長毛がかかって頬がふわふわしたもみ上げみたいな感じになっていて、なかなか可愛かった。けっこう性格のきつい猫だったが、僕とすっかり意気投合して、それから長いあいだ二人で一緒に暮らすことになった。「この猫にはしばらくのあいだ名前をつけていなかったのだが(名前を呼ぶ必要もとくになかったので)、ある日ラジオの深夜番組──たしか『オールナイト・ニッポン』だったと思うな──を聞いていたら、「私はピーターという名前の可愛い猫を飼っていたのですが、それがどこかにいなくなってしまって、今はすごくさびしい」 というリスナーからの投書があった。それを聞いて、「そうか、じゃあ、この猫はとりあえずピーターという名前にしよう」 と思ったのである。
村上 春樹 「猫のピーターのこと、地震のこと、時は休みなく流れる」
WHIRLPOOL(Dedicated 1991)Chapterhouse1987年、英レディングで結成されたシューゲイズ・バンドのChapterhouse。中心メンバーのAndrew Sherriff(ヴォーカル、ギター)とStephen Patman(ヴォーカル、ギター)にSimon Rowe(ギター)、Russell Barrette(ベース)、Ashley Bates(ドラムス)を加えた5人組。疾走するギター・ポップの〈Breather〉、Rachel Goswell(Slowdive)がバ ック・ヴォーカルでゲスト参加した〈Pearl〉、Robin Guthrie(Cocteau Twins)がプロデュースした〈Something More〉など、囁きヴォイスと重厚なノイズ・ギターが渦巻く模範的なシューゲイズ・サウンドである。ボーナス・トラック7曲(3EPs)を追加したリイシ ュー盤(Cherry Red 2006)には低音質の非可逆圧縮マスター・ソースや「The Original Recordings」と称したジャケ違いアルバム
(Space Age Recordings 2009)もあるらしいので要注意。しかし、何度見つめても良く分からない不思議な
「白猫ジャケ」ですね。「うずまき猫のみつけかた」 や 「魔法の猫」(Magicats! 1984)といった書名を連想させますが。
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例の黄色い猫は、別れたカップルに飼われていたのかもしれないが、この猫もまた夢を見ている。前足がときどきぴくりと動き、一度など口をとじたまま短くむにゃむにゃとなにやらつぶやいた。それにしても猫はどんな夢を見るのだろう。そしてそのときいったいだれに向かって話しかけているのだろうか? 猫はめったにむだ口をたたかない。おとなしい動物なのだ。仲間に相談することもなく、自分だけで反省する。一日じゅう反省し、夜になると目が光を反射する。年をとりすぎたシャム猫は子犬よりもうるさいもので、それを聞くと人は「ホラ、おしゃべりしている」というけれど、あの鳴き声は猟犬か雌猫の深い沈黙以上におしゃべりとはほど遠い。この猫が口にするのはニャーオという鳴き声だけだが、その寡黙さによって猫はおれのなくしたのはなにか、おれがなんのために悲しんでいるのかを、こちらに仄めかそうとしているのかもしれない。こいつはちゃんと知っているという気がしてならない。だからこそ、こいつはここへやってきたんだ。
アーシュラ・K・ル=グィン 「シュレディンガーの猫」
UNTOUCHED(Sarah 1993)Secret ShineSecret Shineは英ブリストル出身のシューゲイズ・バンド。Amelia's Dreamという名前で活動していたJamie Gingell(ヴォーカル)とScott Purnell(ギター)の2人に、Scottの弟Dean Purnell(ギター)、Nick Dyte(ドラムス)、Paul Vowles(ベース)、紅一点のKathryn Smith(ヴォーカル)が加わって録音されたデビュー・アルバムは後発バンドながら、シューゲイザーの特質を兼ね備えている。パンキッシュな躍動とドリーミーな静謐が緩急交差する〈Suck Me Down〉、2000年代のGrouperやJulianna Barwickにも通底する〈So Close I Come〉、Cocteau Twinsを想わせる〈Into The Ether〉、女性ヴォイスがギター・ノイズを優しく包み込む〈Sun Warmed Water〉‥‥「シューゲイザーの名盤」がリマスター&初CD化(Saint Marie 2015)された。ソラリゼーション化したパープル・アイ・キャットも内面から白く発光して輝いているように見える。
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シューゲイザーは激しいノイズと美しいメロディという二面性が魅力のひとつだが、本コラムでは "外見" における "美しさ" と "醜さ" を対比させてみよう。まず、"美" ジャケといえば、やはり何といっても「猫ジャケ」だ。ペイル・セインツのファーストの、猫の謎めいた横顔は、彼らのミステリアスさを想起させる。一方でチャプターハウスのファースト、こたつの上で(?)丸くなった白猫の姿は、ある部分で彼らの音楽性のヴィジュアル面でのイメ ージを決定づけたといっても過言ではない。そして2枚組のレア・トラックス集における 「何かをゲイズ(凝視)している」 ネコの顔のどアップにより、彼らは2枚の猫ジャケを世に発表したバンド、即ち "ニャーゲイザー" として永遠に語り継がれる存在となった。Coaltar Of The DeepersのEP、その名も「Cat」もシューゲイザーと猫との親和性をシュレーディンガーの猫以上に雄弁に物語る。
佐藤 一道 「美味ジャケ・ダサ・ジャケ──奥深きアートワークの世界」
ステージ上で身動きせずに俯いてギターを弾くことから 「靴を見つめる」
(Shoegaze)と揶揄されたシューゲイザー。ギター・ノイズの濃霧の中から囁くような消え入るような男女のヴォイスが聴こえて来る幻想的なサウンド。My Bloody Valentaineが完成させたスタイルは廃れるどころか、地下水脈のように滔々と流れ続けて、ゼロ年代にニューゲイザー(nu-gazer, nu-gaze)として復活する。パンクやネオアコ、グランジなどと同じく、ロックの1ジャンルとして定着した。下を向いた姿勢が猫背になるのか、微動だにしない静閑な佇まいがネコを想わせるのか、シューゲイザーとネコは相性が良い。紅い花の匂いを嗅ぐネコの横顔に詩情が溢れるPale Saints、藍い背景に白いネコが奇妙なポーズで蹲るChapterhouse、パープル・アイ・キャットにソラリゼーション化したSecret Shine‥‥「シューゲイザーの猫」たちが3枚のデビュー・アルバムを彩っている。
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- 猫ジャケ番外編‥‥「シュレディンガーの猫」(Schrödinger's cat)のモジリです
- 「さすらいのジェニー」の主人公はピーター少年、「夏への扉」のネコはピート、「狂気のやすらぎ」の話者(わたし)もピーターという名前で呼ばれていますね^^
- 2014年6月に東江一紀さん、2015年1月に佐藤一道さんが逝去していました。合掌
- 30周年記念リマスター盤《The Comforts Of Madness》(4AD 2020)が2枚組(2CD・2LP)でリイシューされました(2020-02-07)
- サムネイルをオンマウスすると、アルバム画像が表示されます(2021-02-17)
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necord / 1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8 / 9 / shoegazer's cats / sknynx / 650
The Comforts Of Madness
- Artist: Pale Saints
- Label: 4AD
- Date: 2007/07/31
- Media: Audio CD
- Songs: Way The World Is / You Tear The World In Two / Sea Of Sound / True Coming Dream / Little Hammer / Insubstantial / A Deep Sleep For Steven / Language Of Flowers / Fell From The Sun / Sight Of You / Time Thief
Whirlpool
- Artist: Chapterhouse
- Label: Cherry Red UK
- Date: 2006/06/06
- Media: Audio CD
- Songs: Breather / Pearl / Autosleeper / Treasure / Falling Down / April / Guilt / If You Want Me / Something More / Need (Somebody) / Inside Of Me / Sixteen Years / Satin Safe / Feel The Same / Come Heaven / In My Arms
Untouched
- Artist: Secret Shine
- Label: Saint Marie
- Date: 2015/09/18
- Media: Audio CD
- Songs: Suck Me Down / Temporal / Spellbound / So Close I Come / Into The Ether / Toward The Sky / Underworld / Sun Warmed Water
狂気のやすらぎ
- 著者:ポール・セイヤー(Paul Sayer)/ 東江 一紀(訳)
- 出版社:草思社
- 発売日: 1989/11/30
- メディア:単行本
- 内容:「わたし」 は重度のカタトニー(緊張型分裂症)患者。全身の運動機能が冒され、意識はきわめて鮮明だが、それを人に伝えることも、表情に表わすこともできない。何年もの間、同じ精神病院に入れられ、積極的な治療も施されないまま、まどろむように均質的な日日をおくっていた。ところがある日、ひとりの女性の訪問が、心地よい平安を破ったので...
うずまき猫のみつけかた
- 著者:村上 春樹
- 出版社:新潮社
- 発売日:2008/02/29
- メディア:単行本
- 目次:不健全な魂のためのスポーツとしてのフル・マラソン / テキサス州オースティンに行く。アルマジロとニクソンの死 / 人喰いクーガーとヘンタイ映画と作家トム・ジョーンズ / この夏は中国・モンゴル旅行と、千倉旅行をしました / ダイエット、避暑地の猫スカムバッグ、オルガン・ジャズの楽しみ / 小説を書いていること、スカッシュを始めたこと、ま...
シューゲイザー・ディスク・ガイド
- 著者:黒田 隆憲 / 佐藤 一道
- 出版社:ブルース・インターアクションズ
- 発売日:2010/03/05
- メディア:単行本
- 目次:シューゲイザーのオリジネイターたち / シューゲイザーの周辺 / シューゲイザーのルーツ / シューゲイザー・サウンド解説 / ニューゲイザー / ジャパニーズ・シューゲイザー / シューゲイザーの遺伝子
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