やがてアルンハイムの楽園がその全体像を一気に現す。魅惑的なメロディが溢れ出し、むせ返るほどに不思議な甘い芳香が漂う。目前の光景を夢まぼろしのごとくに織りなすのは、高くほっそりした東洋の樹木や、鬱蒼とした灌木群、黄金色の鳥、そして深紅の鳥の群れ、百合が周囲に咲き誇る湖、菫やチューリップ、芥子、ヒヤシンス、それに月下香、相互に絡み合う銀色の小川の一群。そして最後に、それらすべてのさなかより、いささか不条理ながら出現するのは、半ばゴシック風、半ばサラセン風の巨大な建築であり、それはあたかも奇蹟の力に拠っているかのごとく、中空に浮かんでいるのだった。真っ赤な夕陽を受けてきらめくその建物には、無数の出窓や尖塔、それに小尖塔が見える。そう、これこそはおそらく熾天使たちや妖精たち、精霊たち、地の精たちが力を合わせて築き上げたまぼろしの芸術作品なのである。
エドガー・アラン・ポー 「アルンハイムの地所」
「マグリット展」(Bunkamura ザ・ミュージアム 2002)から13年振りの
「マグリット展」(国立新美術館)である。東京メトロ千代田線乃木坂駅から会場までは直結している。雨風などを凌げて利便性は良いけれど、新美術館の外観を眺めることは叶わない。ルネ・マグリット
(Rene Magritte 1898ー1967)の作品約130点を時系列順に「1920-1926 初期作品」「1926-1930 シュルレアリスム」「1930-1939 最初の達成」「1939-1948 戦時と戦後」「1948-1967 回帰」の5期に分けて展示したワンフロア(企画展示室2E)構成は2014年に開催された「バルテュス展」(東京都美術館)よりも見やすく、マグリットの不思議な世界に浸れる。誤算は夜間開館日(20:00まで)なので、ゆっくり観られると思っていたのに、通常の閉館時刻(18:00)を過ぎてから逆に混雑して来たこと。混雑に紛れて半券を落としたこと(係員が回収してくれた)。作品保護のためなのか冷房の効きすぎて、長時間館内にいると躰の芯まで冷えてしまうこと。美術館が防寒用のストールを貸出しているほどの寒さなのだ。
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⃞ 天才の顔(The Face of Genius 1926)山高帽、林檎、鈴、キーユ(手摺柱)、ビルボケ(拳玉)、マネキン、マロット(頭部マヌカン)、カーテン、パイプ、ロウソク、仮面(アイマスク)、額縁、棺桶、窓、卵、鳥籠、鳥、空、雲、三日月、海、石、炎、植物、樹木、動物など‥‥ありふれた日常のオブジェや生物、自然などのデペイズマンとコラージュによって超現実世界を創り出す。カンヴァスの中で拡大・縮小・逆転・転位・置換・隠蔽・剥奪・結合・融合・変形された絵画は非現実なのに平易で分かりやすいが、タイトルを参照した鑑賞者は困惑するかもしれない。青黒い水面に木の板が渡され、乳白色のマロットと黒いビルボケが置かれている。マヌカンの右目と左頬は矩形に刳り抜かれ、右目の空洞に前景のビルボケから伸びた枝が入り込み、左頬から後方のビルボケの一部が見える。スキンヘッドのマロットは目を閉じて瞑想しているように見えなくもない。〈天才の顔〉は夢を見ている女性の心象風景なのだろうか。
⃞ 恋人たち(The Lovers 1928)1912年2月24日未明、寝室から抜け出した母レジーナは近くの橋からサンブル川に入水自殺した。溺死体の顔は白いナイトガウンの裾で覆われていたという。お互いの躰を密着させてキスをする赤いドレスの女と黒い背広の男。2人の頭部は頭巾を被ったように白っぽい布で完全に覆われていて、全く顔が見えない。後ろ姿やシルエット、アイマスク、林檎や花などで顔を隠した肖像画はマグリットの特徴的なモチーフの1つである。〈恋人たち〉の顔が布で隠されているのは母の亡骸のイメージが投影されているらしい(マグリットは水死体を見ていないという説もある)。マグリットはロマンティックな愛の接吻を不吉な死のイメージに変容させてしまった。顔を隠すことで〈恋人たち〉の未来を暗示しているのか、それとも2人は既に心中した亡霊なのだろうか。展示室の右隣には正面を向いた
〈恋人たち〉(The Lovers 1928)のタブローも架かっていた。
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⃞ 人間の条件(The Human Condition 1933)マグリットの絵画は一種のトロンプ・ルイユ(だまし絵)と看做して良い(
「だまし絵 II 進化するだまし絵」(Bunkamura 2014)には〈赤いモデル〉や〈白紙委任状〉が出品されていた)。1933年、鳥籠の中に鳥ではなく、卵を幻視したマグリットは「問題と解答」という方法論を発見する。「蝙蝠傘とミシン」ではなく、籠と卵という親和性の高い置換。
〈美しい虜〉(The Fair Captive 1931)はカンヴァスに描かれた風景画と風景が同化しているだけだが、〈人間の条件〉ではイーゼルに架かったカンヴァスを窓辺に置くことで、「窓の問題」の解答を提示している。室内の風景画が外の風景を隠していて、鑑賞者は本当の風景を見ることは出来ない。「私たちが、外部に存在するものとして見ている世界は、実は私たち自身の内部の表象でしかないのです」(「生命線」1938年)。
〈野の鍵〉(The Key to the Fields 1936)では割れた窓ガラスに風景画が描かれていたという新たな「解答」を導き出している。
⃞ アルンハイムの地所(The Domain of Arnheim 1962)自然の事物、たとえば山や岩が何か別のものに見えることがある。三日月の真下、峻嶮な雪山の稜線に翼を広げた鷲のシルエットが現われ、前景中央の城壁に3個の卵の入った巣が置かれている。欄干の幅が余りにも狭いので、風の一吹きで卵が今にも奈落の底に落ちてしまいそうな(ハンプティ・ダンプティのような?)、鑑賞者に緊張感を強いるシチュエーション。石化した親鳥の表情も険しげに映る。タイトルはマグリットが愛読していたエドガー・アラン・ポーの短篇から採られている。「アルンハイムの地所」は百年前に亡くなったシーブライト・エリソンから21歳の誕生日に莫大な遺産を相続した青年エリソンが広大で幽玄な人工庭園を創造する物語。友人の「わたし」は舟やカヌーを乗り継いでアルンハイムを遊覧する。「翼を広げた鷲」はエリソンが創った人工物だったのか。洞窟から雪山の石化した鷲を眺めた〈前兆〉(The Forerunner 1938)の左隣に展示されていた。
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⃞ 炎の帰還(The Return of the Flame 1943)「戦時と戦後」の一時期、マグリットの絵画は激変する。明るい陽光が降り注ぐ印象派風の「ルノワールの時代」と粗野で荒々しい野獣派風の「ヴァッシュの時代」(ヴァッシュ(雄牛)はフォーヴ(野獣)のモジり)。前者はアンドレ・ブルトンから非難を浴びせられ、その「復讐」として描いた後者も不評だった。マグリットは妻ジョルジェットの助言を聞き入れて、それ以降は旧来の画風に「回帰」することになる。赤く燃え上がる印象派風の背景に巨人化した怪盗ファントマが左手で頬杖を突く。ピエール・スーヴェストルとマルセル・アランの小説『ファントマ』
(Fantomas 1911)の表紙絵を流用したパロディ画だが、マグリットは右手の短剣を薔薇の花に置き換えている。赤く染まったパリの街を黒マスクの怪人が呆然と思案する?‥‥朝日新聞の読書欄に載った
『マグリット事典』(創元社 2015)の
「書評」(横尾忠則)は前代未聞ですね。
⃞ 不思議の国のアリス(Alice in Wonderland 1946)ルイス・キャロルのファンタジー『不思議の国のアリス』(1865)をモチーフにした作品。マグリットはマックス・エルンストやサルヴァドール・ダリなどのシュルレアリストたちと同じく、言葉遊びやナンセンス詩や狂った会話が横溢する「アリス」に魅了されていた。縦長のカンヴァスの左に右向きの顔(目・鼻)が描かれた樹木、右上に「オノレ・ドーミエの描いたルイ・フィリップ王の有名な風刺画」から採ったという洋梨顔(おかしな梨顔)の雲がチェシャ猫のように浮かぶ。端正な筆致のマグリットにしては珍しい、絵本やアニメのような寓話的なキャラクター。何の捻りも含蓄もないタイトル。しかし、このタブローが不思議なのは女主人公のアリスが描かれていないことである。一体アリスちゃんはどこへ行ってしまったのか?‥‥ここにも「不在の表象」という裏テーマが隠れている。
⃞ シェヘラザード(Scheherazade 1948)〈不思議の国のアリス〉とは対照的に『千夜一夜物語』のシェヘラザードは美しい顔を露出している。前景左にある平らな石の上の左に鉄の鈴、中央にシェヘラザード、右に水の入ったガラスのコップ。その奥はサーモンピンクのカーテンが引かれ、遠景に青空と白い雲の風景が眺望される。右側のカーテンの手前には
〈オルメイヤーの阿房宮〉(Almayer's Folly 1951)が置換され、V字型の亀裂から白い鳥たちが羽搏く。シェヘラザードの顔は福笑いのパーツのような左右の目と赤い唇だけで、真珠の連なりが顔の輪郭と胴体を宝飾品のように形作っている。
〈王様の美術館〉(The King's Museum 1966)など、顔のパーツ(目・鼻・口)が空中浮游する同趣向のタブローと比べても、女性モデル(ラシェル・バース)を起用した〈シェヘラザード〉はアクセサリーのように美しくて可愛い。目や口だけを残して透明化するアイディアはチェシャ猫だったりして?
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⃞ ゴルコンダ(Golconde 1953)回顧展のパンフレットやチケットにも使われている〈ゴルコンダ〉は空中浮游する男たちが黒い雨垂れのように見えなくもない。赤い屋根の集合住宅に降る無数の男たち。彼らは山高帽に黒いコートという匿名性を纏っているけれど、1人1人の顔は異なっている。マグリット自身も没個性化した群衆の中に隠れているのかもしれない。「ゴルコンダ」は1687年、ムガル帝国第6代皇帝アウランゼーブによって滅ぼされたインド南部の都市名である。世界有数のダイヤモンドの産地として繁栄した奇想の都も、中産階級の暮らす類型的な街に変貌してしまったということなのか。《普通の男性の匿名性を表現することによって、中産階級を批判することはもちろんのこと、マグリットが普通の男性の衣装として同一の制服を採用したのは、匿名性がもっている破壊的な潜在能力を認識するためでもあった》(『マグリット事典』Anonymity 匿名性)。
⃞ 白紙委任状(The Blank Signature 1965)森の中を散策する女性騎手。〈白紙委任状〉はエッシャーの〈物見の塔〉(1958)のような錯誤した遠近法で描かれている。騎手の手前の木が馬の尻を隠し、奥の木を馬が隠す。しかし、同時に奥に隠れて見えない木と背後の空間までもが騎手の左右を隠しているのだ。本来隠されて見えないものを現前させる視覚トリックに留まらず、鑑賞者の思考や想像力も試される。見えないものにこそ「真実」が隠されているというマグリットの深淵なメッセージも感じられる。非現実世界なのに
〈光の帝国〉(The Empire of Lights 1954)のようにタブローとしても美しい。女性騎手にはメリーゴーランドに乗る若きジョルジェット・ベルジェの面影が投影されているのかしら。宮崎県立美術館所蔵の〈白紙委任状〉(1966)と〈現実の感覚〉(A Sense of Reality 1963)の2点は会期後半(5/13)からの展示だった。
⃞ 大家族(The Great Family 1963)暗雲が垂れ籠めた不穏な空と北海の荒波に1羽の鳥のシルエットが描かれている。空を飛ぶ巨大な鳩は青空と白い雲の衣裳を纏っている。暗鬱な空模様と荒々しい海が米ソ冷戦時代の「キューバ危機」を反映しているとしたら、羽搏く鳩は「平和のシンボル」であろうか。核戦争の恐怖に脅えた暗い世界を平和の鳩が空色に切り抜く。「大家族」というタイトルもマグリットにしては分かりやすい。もしマグリットが生きていたら、紛争やテロが止まない21世紀の現代に一体どのような絵を描いただろうか。鳩のシルエットを右向きに変え、空を藍色、海を夜の滑走路に代えた
〈空の鳥〉(The Sky Bird 1966)はベルギー国営航空会社サベナの注文制作によるタブロー。《サベナは、これを1966年から1973年まで大量に使用した。雑誌『私たちのサベナ』の表紙と広告、さらにまた、便箋、時刻表、搭乗券、年賀状、宣伝用品(マッチ・ケース、トランプ)》(ジョルジュ・ロック)などにも描かれた。今も世界中に氾濫する「マグリットもどき」ではなく、正規の広告作品である。
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not magritte / may be magritte / sknynx / 580
マグリット展
- アーティスト:ルネ・マグリット(Rene Magritte)
- 会場:国立新美術館
- 会期:2015/03/25~06/29
- メディア:絵画
- 構成:1920-1926 初期作品 / 1926-1930 シュルレアリスム / 1930-1939 最初の達成 / 1939-1948 戦時と戦後 / 1948-1967 回帰
マグリット事典
- 著者:クリストフ・グリューネンベルク(Christoph Grunenberg)/ グレン・ファイ(Garren Pih)/ 野崎 武夫(訳)
- 出版社:創元社
- 発売日:2015/04/06
- メディア:単行本
- 目次:Absence 不在 / Abstruction 抽象画 / Alice in Wonderland 不思議の国のアリス / Anonymity 匿名性 / Apple リンゴ / Appropriation 流用 / Artifice 狡猾 / Automatism and Automatic Writing 自動作用と自動筆記 / Banality 凡庸 / Georges Bataille ジョルジュ・バタイユ / Charles-Pierre Baudelaire シャルル=ピエール・ボードレール / Bel...
もっと知りたいマグリット 生涯と作品
- 著者:南 雄介
- 出版社:東京美術
- 発売日:2015/02/28
- メディア:単行本
- 目次:マグリットの現代性(南 雄介)/ 母の死—模索時代 1898-1925 / シュルレアリスムへの道 1925-1930 / イメージの詩学 1930-1939 / 戦火をくぐりぬけて 1939-1950 / "マグリットへの回帰" 1950-1967 / マグリットとベルギー美術(福満 葉子)
マグリット 光と闇に隠された素顔
- 著者:森 耕治
- 出版社:マール社
- 発売日:2012/12/26
- メディア: ムック
- 目次:マグリットの素顔 / 1898-1917年 誕生・青年期 / 1918-1925年 シュルレアリスム以前 印象派から抽象画へ、そして未来派とキュビスムへ / 1925-1930年 シュルレアリスム第1期 紺色の時代 / 1930-1942年 シュルレアリスム第2期 確立期 / 1943-1948年 太陽と牡牛の時期 模索と激動期 / 1949-1967年 青空のシュルレアリスム
妙なるテンポ
- 著者:ヴァレリー・アファナシエフ(Valery Afanassiev)/ 田村 恵子(訳)
- 出版社:未知谷
- 発売日:2014/05/01
- メディア:単行本
- 目次:音楽ファン / 神は創造中 / 科学的データ / 最初のメロディー / 留守番電話 / 巣の中の郭公 / ボルヘスに捧ぐオマージュ / マグリットに捧げるオマージュ / 玄人の基準 / 年配のご婦人方が世界を救う!/ 天空の音楽 / 最後に残るのは言葉 / ベルサイユの公園にて / グランドホテル / ドストエフスキーと彼のカルマ / 運命の力 / 雪の上の足跡 / 大天使...ウリエルと若きファウスト / 第三の警察官 / 帽子 / 妙なるテンポ
大渦巻への落下・灯台 ポー短編集 III SF&ファンタジー編
- 著者:エドガー・アラン ポー(Edgar Allan Poe)/ 巽 孝之(訳)
- 出版社:新潮社
- 発売日: 2015/02/28
- メディア: 文庫
- 目次:大渦巻への落下 / 使い切った男 / タール博士とフェザー教授の療法 / メルツェルのチェス・プレイヤー / メロンタ・タウタ / アルンハイムの地所 / 灯台 / 解説 / 年譜
こんにちは。雨がおおいですね。
マグリット展、次は京都らしいです。
名古屋は飛ばされるモヨウ。。><
by ぶーけ (2015-07-08 15:50)
ぶーけさん、コメントありがとう。
雨だけではなく、山高帽の男たちも空から降って来たりして‥‥。
行方不明の〈ピレネーの城〉は京都へ飛んで行ったらしい。
館内は異常に寒いので、1枚羽織って観に行きましょう^^
by sknys (2015-07-08 19:10)