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美恵子コレクション 2 [b o o k s]



  • そして、私は散歩の途中、雑木林に囲まれた空家の庭に迷いこみ、疲れて石に腰をおろして休んでいた時、眼の前を、大きな白い兎が走るのを見たのだった。大きい、と言っても、それは普通の大きさではなくて、ほとんど私と同じくらいの大きさだった。けれど、それは兎であり、それが証拠には、大きな耳を持っていたし、ともかく、どこから見ても兎にしか見えないのだ。私は石の上からとび上って兎を追いかけたのだが、追いかけて走っている時、まるで気を失うように、突然、穴の中に落ち込んでしまったのだ。気がついてみると、さきほどの大きな兎が私をのぞきこむようにして、すぐ近くにすわっていた。/「あなたは誰?」/「散歩していたんですけど、迷ってここへ来てしまったんです。あなたは、兎ですか? いえ、兎さんですか?」/「すっかり、そう見えるでしょう?」と、その兎は嬉しそうに咽喉をクックッと鳴らしながら言った。「でも、本当は人間なのです。多分。どっちでもいいような気も最近ではしますけれど」
    金井 美恵子 「兎」


  • ◆ 兎(筑摩書房 1973)金井 美恵子
  • 金井美恵子(当時26歳)の第1短篇小説集である。「愛あるかぎり」 「不滅の夜」 「帰還」 「恋人たち」 「森のメリュジーヌ」 「腐肉」 「母子像」 「血まみれマリー」 「忘れられた土地」 「耳」 「海のスフィンクス」 「山姥」 「迷宮の星祭り」 「降誕祭の夜」 「兎」 の15篇を収録。表題作の「兎」はエピグラフに引いた『不思議の国のアリス』をマンディアルグ風に料理した血も滴る一品。散歩の途中、迷い込んだ空家の庭の石に座って休んでいた時、大きな白い兎が眼の前を走るのを見た「私」は兎の着ぐるみ少女の後を追って穴に落ちる‥‥。単行本は青い布装で、白地カヴァの左上に「兎」の紅い文字、その下に黒字で著者名、右側に兎のモノクロ・イラスト(装画・落合茂)が描かれている。集英社文庫(1979)の表紙カヴァ(花の蕾と兎の横顔が縦に並ぶ)は姉・金井久美子。文庫版の「解説」で、吉田健一は『兎』を「大人の童話」と評している‥‥《この本に収められたのは確かに童話であると言える。殊に童話を子供が読むものと決めなければで大人と子供が読むものを区別する必要はない。もし大人が読んでも面白くないものならば子供にも向かないのである》。

  • ◆ アカシア騎士団(新潮社1976)金井 美恵子
  • 第2短篇集には16篇の小説が収録されている。「静かな家」 「夜には九夜」 「アルカディア探し」 「真珠の首飾り」 「幼稚な美青年」 * 「暗殺者」 「永遠の恋人」 「手品師」 「黄金の街」 「空気男のはなし」 」「指の話」 * 「無欠の快楽」 「千の夢」 「赤い靴」 「薔薇色の本」 「アカシア騎士団」 (目次はアスタリスクによって3つのグループに分かれている)。『鏡の国のアリス』の一節をエピグラフにした表題作は木工場の主人が「私」に告白する奇妙な話。古本屋で買った1枚の版画から着想して書いた小説、忘れ去られた幻の「アカシア騎士団」を新たに書き出すという話で、その草稿が「現実」や「夢」のように語られる。単行本のカヴァと扉絵のネコは『ペロー童話集』の挿画(ギュスターヴ・ドレ)を使用。「ペネロペーの機織り──あとがきにかえて」の中で著者は書く(書き直す)ことを決して完成することのないペネロペーの機織りに擬えている。《織る(書く)という行為の虚しい持続と、完成されることのない織り物(作品)を夢見ることが、この、模倣と他人の作品の影響によって寄せ集めはぎあわされた十六篇の小説のモチーフと言えるかもしれない》。

  • ◆ プラトン的恋愛(講談社1979)金井 美恵子
  • 第3短編集は 「プラトン的恋愛」 「桃の園」 「二つの死」 「才子佳人」 「アルゴス」 「年齢について」 「木の箱」 「日記」 「公園の中の水族館」 「花嫁たち」 「もう一つの薔薇」 」の11篇を収録。表題作は小説を発表する度に、「あなたの名前で発表された小説を書いたのはわたしです」 という同じ書き出しの手紙を送って来る〈本当の作者〉と「わたし」の奇妙な関係が描かれる。「わたし」 は新しく書き始める小説「プラトン的恋愛」のためのノートと短篇集に纏めるために手直しすべき何篇かの短篇と〈自作を語る〉(3年前に書いた「兎」?)というテーマの原稿を持って湯河原の旅館へ行く。無為に5日間を過ごした「わたし」は昼食後の散歩中に見知らぬ女から話しかけられる。彼女こそ〈本当の作者〉だった。2人は公園の入口近くのレストランの窓際のテーブルに向かい合って話し合う。家に帰ると〈本当の作者〉から手紙が届いていて、「プラトン的恋愛」 の原稿が入っていた。「わたし」 」と〈本当の作者〉の合わせ鏡。ドッペルゲンガーのような、もう1人の「わたし」が書いた小説が「プラトン的恋愛」だという入れ子構造は軽い眩暈を起こさせる。

  • ◆ タマや(講談社 1987)金井 美恵子
  • アレクサンドルが白黒ブチ猫を「紅梅荘」へ連れて来る。ネコを入れた革製のリュックを背負いオートバイに乗って、小林夏之(ぼく)のアパートへ‥‥。アレクサンドル・豪(兼光宇礼雄)の異父姉ツネコ(恒子)さんが妊娠したので、身重のタマちゃんを預かって欲しいというのだ。ツネコさんは父親と思われる数人の男たちから金を巻き上げて行方不明。アレクサンドルと共に「紅梅荘」に居着いてしまった父親候補の1人、藤堂冬彦は夏之の異父兄だった。夏之とアレクサンドルと冬彦、フリー・カメラマンと京都の精神科医とハーフのAV男優と出産したタマと5匹の仔猫の奇妙な共同生活が始まる。連作集『タマや』は会話がカギ括弧で括られない自由間接話法の1人称小説で、「タマや」「賜物」「漂泊の魂」「たまゆら」「薬玉」‥‥という風に、内田百間、ナボコフ、メアリ・マッカーシー、川端康成、吉岡実の小説や詩集からタイトル(「タマ」という言葉が入っている)を借用しているだけではなく、『山のトムさん』や『ブレードランナー』などの児童書や映画、論壇時評(朝日新聞)や雑誌エッセイ(暮しの手帖)も縦横無尽に引用される。

  • ◆ 噂の娘(講談社 2002)金井 美恵子
  • いわゆる通俗小説の「目白4部作」ではない、金井美恵子本来の長編小説。例によって長いセンテンスのアクロバッティックな文体が駆使されているが、長年の読者の馴れなのか、それとも作者の熟練の成果なのか、驚くほどに読みやすい。ヒロイン少女に弟がいることを慮れば「自伝的」という形容は的外れである。「私」が語る1950年代に小学生だった少女の記憶、「私」 が経験した出来事や目や耳にした噂話は甘美で不安な夢のように回想・記述される。そして、読者は最後の1行で「現実」に引き戻されて、長い夢から醒めたように狼狽えてしまうのだ‥‥《あの人たち、あの娘たちは今どうしているのだろうか、と弟が煙草をガラスの灰皿に押しつけて消しながら言い、私は黙っている。/ 私たちは,たった今、母の葬式をすませて来たのだ、と書こうとして、指はためらいに痙攣し、痙攣しつづける》。単行本のカヴァと見返しには1950年代前半に小学3年生だった姉・金井久美子の描いた絵が使われている。判型(菊判)と行間に余白のあるレイアウトは「児童書」を想わせなくもない。

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  • ◇ 小説を読む、ことばを書く(平凡社 2013)金井 美恵子
  • 「エッセイ・コレクション 3」は『添寝の悪夢 午睡の夢』(1976)以降の文学的エッセイ集から選出されている。カフカ、深沢七郎、アーサー・ランサム、天沢退二郎、吉岡実 、野坂昭如、吉田健一、岡本かの子、島尾敏雄、大岡昇平、谷崎潤一郎、澁澤龍彦、ボルヘス、瀧口修造、高村智恵子、後藤明生、ナボコフ、武田百合子、東海林さだお、森茉莉、中村光夫、石井桃子、ジェイン・オースティン、中上健次、山田風太郎、マーク・トウェインなどの小説や詩やエッセイを読んで批評する。しかし、本書の白眉は「IV 単行本未収録批評、その他」の3篇、大幅に加筆された「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」(2012)、書き下ろしの「歌の人々、あるいは『風流夢譚』事件とその周辺」(2013)、「『風流夢譚』の出版は罪ではないし、言論の自由として認められるべきだが、出版によって起こり得る事態を想定しなかったことは責められる」と島田雅彦は書いた」(2002)かもしれない。巻末に朝吹真理子の「解説エッセイ」と「金井美恵子 著作目録 1968-2013」を収録。

  • ◇ 映画、柔らかい肌。映画にさわる(平凡社 2014)金井 美恵子
  • 「エッセイ・コレクション 4」は映画エッセイ集成。表・裏表紙の見返しにカヴァが載っている『映画、柔らかい肌』(1983)と『愉しみはTVの彼方に』(1994)の2冊だけでなく、『おばさんのディスクール』(1984)、『重箱のすみ』(1998)、『「競争相手は馬鹿ばかり」の世界へようこそ』(2003)、『楽しみと日々』(2007)、『昔のミセス』(2008)などからも数篇選ばれている。ロバート・アルドリッチ、トリュフォー、リー・マーヴィン、キートン、鈴木清順、ゴダール、ダニエル・シュミット、エリック・ロメール、A・ヘップバーン、マキノ雅広、ジャン・ルノワール、エイゼンシュテイン、小津安二郎、ロバート・ミッチャム、溝口健二、ルイス・ブニュエル、ジャン・ヴィゴ‥‥。「水の娘。浴みする女」はエッセイではなく、小説集『柔らかい土をふんで、』(1997)の中の一篇。最終巻らしく「金井美恵子インタヴュー 2014」と金井久美子インタヴュー「こうして本は作られた」を特別収録。「金井美恵子エッセイ・コレクション[1964 - 2013]収録作品タイトル・収録単行本一覧」も巻末に併録されている。

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    兎

    • 著者:金井 美恵子
    • 出版社:集英社
    • 発売日:1979/02/28
    • メディア:文庫
    • 目次:愛あるかぎり / 不滅の夜 / 帰還 / 恋人たち / 森のメリュジーヌ / 腐肉 / 母子像 / 血まみれマリー / 忘れられた土地 / 耳 / 海のスフィンクス / 山姥 / 迷宮の星祭り / 降誕祭の夜 / 兎 / 解説(吉田 健一)


    アカシア騎士団

    アカシア騎士団

    • 著者:金井 美恵子
    • 出版社:新潮社
    • 発売日: 1976/02/20
    • メディア:単行本
    • 目次:静かな家 / 夜には九夜 / アルカディア探し / 真珠の首飾り / 幼稚な美青年 / 暗殺者 / 永遠の恋人 / 手品師 / 黄金の街 / 空気男のはなし / 指の話 / 無欠の快楽 / 千の夢 / 赤い靴 / 薔薇色の本 / アカシア騎士団 / ペネロペーの機織り──あとがきにかえて


    プラトン的恋愛

    プラトン的恋愛

    • 著者:金井 美恵子
    • 出版社:講談社
    • 発売日: 1979/07/24
    • メディア:単行本
    • 目次:プラトン的恋愛 / 桃の園 / 二つの死 / 才子佳人 / アルゴス / 年齢について / 木の箱 / 日記 / 公園の中の水族館 / 花嫁たち / もう一つの薔薇 / あとがき


    タマや

    タマや

    • 著者:金井 美恵子
    • 出版社:講談社
    • 発売日:1987/11/10
    • メディア:単行本
    • 目次:タマや / 賜物 / アマンダ・アンダーソンの写真 / 漂泊の魂 / たまゆら / 薬玉 /「タマや」について


    噂の娘

    噂の娘

    • 著者:金井 美恵子
    • 出版社:講談社
    • 発売日:2002/01/07
    • メディア:単行本
    • 目次:噂の娘 / あとがき


    小説を読む、ことばを書く (金井美恵子エッセイ・コレクション 3)

    小説を読む、ことばを書く(金井美恵子エッセイ・コレクション 3)

    • 著者:金井美恵子
    • 出版社:平凡社
    • 発売日:2013/10/29
    • メディア:単行本
    • 目次:絢爛の椅子 / アーサー・ランサムの世界 / 序奏・天沢退二郎あるいは汁への導入部の手前で / 桃──あるいは下痢へ 吉岡実 / 吉岡実とあう──人・語・物 / 他人の言葉 / アリスの絵本 / 甘美な眠りの逆説 野坂昭如 / 吉田健一『私の食物誌』/ 単純さと優雅さ / 快楽と死──怪奇な話 吉田健一 / 落ちつける場所 吉田健一 / 岡本かの子覚書 /『死の棘』を読む


    映画、柔らかい肌。映画にさわる(金井美恵子エッセイ・コレクション 4)

    映画、柔らかい肌。映画にさわる(金井美恵子エッセイ・コレクション 4)

    • 著者:金井 美恵子
    • 出版社:平凡社
    • 発売日:2014/03/19
    • メディア:単行本
    • 目次:映画、柔らかい肌 / 愉しみはTVの彼方に、そして楽しみと日々 / 女優=男優 / 映画と批評のことば / 映画から小説へ1 金井美恵子インタヴュー 2014 / 映画から小説へ2 水の娘、浴みする女 / こうして本は作られた 金井久美子インタヴュー / あとがき

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