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1Q84年のリトル・ピープル [b o o k s]



  • 月では恒久的な観測基地の建設が進行していた。そこではアメリカとソビエトが珍しく協力し合っていた。南極の観測基地のケースと同じように。月面基地? と青豆は首をひねった。そんな話は聞いたことがない。いったいどうなっているのだろう? しかしそれについてはあまり深く考えないことにした。もっと大事な当面の問題がほかにあったからだ。九州の炭鉱火災事故で多数の死者が出て、政府はその原因を追求していた。月面基地ができる時代に人々がまだ石炭を掘り続けていること自体が、青豆にはむしろ驚きだった。アメリカが日本に金融市場開放の要求をつきつけていた。モルガン・スタンレーやメリル・リンチが政府をたきつけて、新たな金儲け口を探している。島根県にいる賢い猫が紹介された。猫は自分で窓を開けて外に出ていくのだが、出たあと自分で窓を閉めた。飼い主がそうするように教え込んだのだ。青豆はやせた黒猫が後ろを振り向き、片手をのばし、意味ありげな目つきでそろりと窓を閉めるシーンを感心して見ていた。
    村上 春樹 『1Q84 BOOK 1』


  • 『1Q84』(新潮社 2009)は2人の主人公、青豆と天吾が現実と良く似た別世界の中に入ってしまう物語である。1984年から夜空に2つの月が浮かぶ1Q84年へ。天吾がリライトした「空気さなぎ」や執筆中の「長編小説」を想わせる1Q84年は、1981年11月半ばに本栖湖近くで勃発した山梨県警と過激派との銃撃戦の後、警官の制服と携行する制式拳銃が6連発リボルバーから15連発オートマチックのベレッタ(Beretta-M92FSはゲーム「バイオハザード」(1996)の初期装備ハンドガンとしても有名)に変更された世界。しかし、1Q84年は2つの世界が並列的に進行しているSF的なパラレル・ワールドではなく、決して後戻り出来ない一方通行(1984 → 1Q84)の書き換えられた「過去」だった。1984年という時間軸は存在しない。1984年は1Q84年に上書きされたのだ。ヒロインの青豆が渋滞する首都高速道路のタクシーから降りて、緊急用駐車スペースに設置された非常階段の鉄柵を(ハイヒールとコートを脱ぎ、ミニスカートを腰辺りまで捲り上げて!)乗り越えた時に。

    ジョージ・オーウェルの『1984』(1949)はビッグ・ブラザーが支配する近未来小説だったが、『1Q84』は改変された過去の物語である。不穏な通奏低音のようにバックで流れているマザー・グースの「オレンジとレモン」と、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』。25年後の現在(2009)から眺めれば『1984』も『1Q84』も架空の近過去ということになる。60年前のオーウェルは全体主義を批判したつもりだったけれど、クレジットカードで個人情報を管理し、防犯カメラで監視する200Q年の高度資本主義世界が『1984』に酷似しているのは皮肉な巡り合わせである。ビッグ・ブラザーが巨大なマザー・コンピュータのようなものなら、『1Q84』のリトル・ピープルは『ブッシュ・オブ・ゴースツ』の「幽鬼」みたいな存在なのだろうか。孤立無援で疑心暗鬼に駆られている『1984』の主人公には「オレンジとレモン」の唄が暗示する運命が待っていた。『1Q84』の2人の主人公たちは夜空に浮かぶ「レモンとライム」の月のように互いに引き合う。

    『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)や『海辺のカフカ』(2002)と同じように、『1Q84』も2つの物語が交互に同時進行して行く。小学校の同級生だった青豆と天吾の2人は共に1984年から1Q84年へ移行する。世界が「1984」から「1Q84」へ変化したと言い換えても良い。2人は現実とフィクションという2つの世界ではなく同じ1Q84年を生きることになる。予備校の数学講師をしている小説家志望の川奈天吾(30歳)は編集者・小松祐二の計略に乗って新人賞の応募作品「空気さなぎ」を書き直す。2つの月が浮かぶ幻想的な短篇「空気さなぎ」。天吾が書いている「長編小説」が、まるで「青豆」の章であるかのようなメタ・フィクション風の構成。青豆と天吾の2つの物語が並列しているのではなく、「空気さなぎ」<「青豆」<「天吾」という3重構造になっているのかもしれない。「青豆」の物語は天吾の書いたフィクションだと仮定すれば、月が2つあるという非現実的な設定にも頷ける。しかし、「天吾」の世界にも2つの月が浮かんでいたのだ。

    『世界の終り‥‥』や『海辺のカフカ』との違いは青豆と天吾の2つの物語が3人称の視点で書かれていること。1人称小説の場合、どんなに非現実的な世界が描かれていても頭のおかしい語り手(話者)の主観として成立したが、3人称小説は「神の視点」による客観描写という前提になっている。もちろん「意識の流れ」〜ヌーヴォ・ロマン以降の主観的な3人称で描かれている20世紀小説も主人公の視線(視点)で歪められているわけだし、リチャード・パワーズも書いているように「客観描写」は不可能だということになっている。1人称視点の場合は信用出来ない話者の信憑性を常に疑わなければならないけれど、3人称視点で描写されている事物は、それが不自然で奇異であったとしても「事実」として認めなければならない。つまり、青豆が《空には月が2つ浮かんでいた》、天吾が《錯覚ではない。月は2つある》と認識する時、それが物語内の「事実」だということである。狂っているのは2人の主人公なのか、それとも2つの月が浮かぶ世界なのか?

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    スポーツ・クラブのインストラクターをしている青豆には「裏の顔」があった。麻布にある「柳屋敷」の老婦人の指令を受けて、日常的に妻を暴行したり恋人をレイプし続ける男たちを「別の世界に移す」殺し屋としての仕事が‥‥。女主人と彼女を警護するタマル(田丸健一)は屋敷の隣にあるセーフ・ハウスに暴力的な男たちから避難してきた女たちを保護している。恐らく女主人は急進的なフェミニスト組織に属しているのだろう。青豆は「必殺仕掛人」の梅安みたいに、アイスピックに似た先端が鋭く尖った凶器を男の首筋の急所に「すとんと落とす」。まるでミレーヌ・ホフマンや女忍者みたいな非現実的な設定だが、これが女主人公の妄想でないのは3人称視点による小説だから、2つの月が浮かぶ1Q84年の世界に起こったことだから。女刺客の最後の仕事はカルト教団のリーダーを抹殺することだった。宗教団体「さきがけ」の教祖は教団内の少女たちをレイプしているというのだ。

    天吾がリライトした短篇「空気さなぎ」の作者、深田絵里子こと「ふかえり」はディスレクシア(読字障害)だった。父親の深田保は農業共同生活を営む「タカシマ」に入った後、独立して山梨県の山中に新生コミューン「さきがけ」を創設する。有機農法による農場経営は軌道に乗るが、1976年に2つのグループ、穏健派の「さきがけ」と武闘派の「あけぼの」に分裂する。「あけぼの」は3年前の銃撃戦で壊滅し、1979年に宗教法人の認可を受けた「さきがけ」は農業コミューンからカルト教団へ転身した。「ふかえり」が父親の友人の戎野隆之(元文化人類学者)の許へ身を寄せたのは1981年のこと。それ以来7年間、彼女の両親とは音信不通になっている。「ふかえり」が語り、戎野の娘アザミが書いて、天吾が書き直した「空気さなぎ」は小松祐二の思惑通り文芸誌の新人賞を受賞し、17歳の美少女が書いたという話題性もあって、単行本は大ベストセラーとなる。

    老婦人が隣地のセーフハウスに保護した少女つばさ(10歳)はレイプされて子宮を破壊されていた。彼女をレイプしたのはカルト教団「さきがけ」のリーダーと呼ばれる教祖である。青豆はリーダーの病んだ身体(筋肉)をマッサージ治療するインストラクターとして新宿ホテル・オークラへ向かう。2人のボディガードが青豆をホテルの一室へ案内する。しかし、ベッドの上で眠っていた巨体のリーダーは青豆の真の目的を察知していただけでなく、自分を殺して肉体的苦痛から解き放って欲しいとさえ言う。リーダーは深田保の変わり果てた姿なのだろう。娘の絵里子がリトル・ピープルを導き入れて、父親が彼らの代理人となった。娘=パシヴァ(perceiver)、父=レシヴァ(receiver)という関係。そして、リーダーは娘や初潮前の少女たちと交わることになる。しかし、彼女たちは実体ではなく観念としてのドウタ(心の影)であるという。

    小説「空気さなぎ」の少女は山中の小さな「集まり」の中で暮らしている。ある日、少女は山羊を世話する仕事を忘れて、年老いた目の見えない山羊を死なせてしまう。彼女は罰を受けて10日間、死んだ山羊と共に古い土蔵の中に幽閉される。3日目の夜、山羊の口が大きく開いて、「白雪姫と7人の小人」のコビトみたいなリトル・ピープルが出て来る。彼らは空気中から手品のように糸を取り出して「空気さなぎ」を紡ぐ。「空気さなぎ」の中に入っていたのは少女(マザ)の分身ドウタだった。ドウタはパシヴァ(知覚するもの)で、マザがドウタの近くで面倒をみなければならない(ドウタは「daughter」の意味だろう)。「ドウタを失えばマザは心の影をなくすことになる」「ドウタが目覚めたときには、空の月が2つになる」‥‥と少女に語りかけるリトル・ピープルの存在が『1Q84』の最大の謎かもしれない。「ふかえり」が口述した「空気さなぎ」の物語は彼女の身に実際に起こったことだった(彼女がディスレクシアなのはドウタが失われているから?)。「ふかえり」の中に「空気さなぎ」の少女が、少女の中にドウタが、白い繭に包まれた娘のように内包されている。

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    『ねじまき鳥クロニクル』(1994~95)の「クミコ」や『スプートニクの恋人』(1999)の「すみれ」のように、「失踪する女たち」というテーマは村上ワールドで顕著に見られるアトラクションだが、『1Q84』においても多くの女性たちが世界から失われて行く。自殺した大塚環(青豆の親友)、セックス・プレイ中に絞殺された中野あゆみ(警官)、老婦人に保護された少女つばさ、天吾の愛人・安田恭子(人妻)、深田絵里子‥‥しかし、「ふかえり」は一時身を隠して行方不明になった後、再び天吾の許ヘ帰って来る。1度にワン・センテンスしか喋らない、疑問符抜きで質問する語法(彼女の話し言葉はヒラガナとカタカナだけで表記される)、それは天吾との会話の中で発せられるのだが、寡黙な巫女の神託のように天吾に重要な啓示やヒントを与える。まるで迷子の子羊を正しい道へ導く羊飼いの娘のように、あるいは夢の中で水先案内する神秘的な雌ネコのように‥‥。

    『海辺のカフカ』に登場する猫たちのように、『1Q84』の中でも「ネコ」が重要な役を演じている。タマルが青豆に語る「菜食主義の猫とネズミ」のエピソード。「猫の町」は天吾が認知症の父親を見舞うために千倉の療養所へ向かう列車の中で読む文庫本、「旅をテーマにした短編小説のアンソロジー」の1篇である。列車に乗って気ままな1人旅をしている青年が、ある駅に降り立つ。昼間は無人の町だったが、日が暮れる頃になるとネコたちが石橋を渡って町に来て、夜が明けると帰って行く。ネコたちの夜の町だったのだ。町の中心にある鐘撞台の上に身を潜めた青年はネコたちに感ずかれて絶対絶命のピンチに陥るが、不思議なことにネコたちには彼の姿が全く見えなかった。この町の駅に列車が停まることはない。青年は悟る。猫の町は《彼が失われるべき場所だった》と。就寝前に天吾が「猫の町」の物語を話すと、「ふかえり」は「あなたはネコのまちにいったのだから、オハライをしなくてはいけない」と言う。「オハライ」とは天吾と「ふかえり」の2人が交わることだった!

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    チームを組んだ天吾と「ふかえり」の2人は反リトル・ピープル的な存在として作用する。「さきがけ」のリーダーを青豆が抹殺すればリトル・ピープルが天吾に危害を加える理由はなくなるが、教団の長い腕が青豆を脅かす。逆にリーダーを殺さなければ青豆に危害が及ぶことはなくなり、リトル・ピープルが天吾を排除しようとする。青豆が死んで天吾が生き残るか、それとも天吾が死んで青豆が生き延びるかの究極の二者択一!‥‥ホテルのスイートルームで青豆とリーダーは取り引きする。再び療養所を訪れた天吾は昏睡状態に陥っている父親に話しかける。検査室に運ばれて無人となった父親のベッドの上に「空気さなぎ」が現われる。「空気さなぎ」の中の少女は青豆のドウタだった。余りにも多くの伏線と消息不明の登場人物たちを残したまま『1Q84』は終わる。このままでは消化不良だなぁ‥‥と思っていたら、あの『ねじまき鳥クロニクル』のように第3部(Book3)が来夏に刊行されるという。「天吾」は兎も角、「青豆」の章に続きはあるのだろうか。ヘックラー&コッホHK4(Heckler & Koch HK4)の引き金を引いたけれど、9mm弾が不発だったとか?

    ハードボイルド調の「青豆」の章はスリルとサスペンスに満ちているし、新人賞の応募作品に手を加えるという「天吾」の出版業界の内幕も興味深い。天吾と人妻の不倫や、あゆみと青豆のコンビが逆ナンパするセックス・プレイもある。ミステリアスな美少女「ふかえり」が口述した「空気さなぎ」や、無名のドイツ人作家が書いたという「猫の町」も小説内小説として語られる。ディスレクシア、農業コミューン、カルト教団、リトル・ピープル、マザとドウタ、パシヴァとレシヴァ、パラレル・ワールド、2つの月‥‥という謎めいた道具立ても揃っているけれど、どう考えても刊行後数ヵ月で数百万部も売れる「長編小説」だとは思えない。著者は新聞のインタヴューで「僕の固定読者は、長編で約15万〜20万人」と発言しているが、村上ワンダーランドの常連客(リピーター)は兎も角、初めて読む約9割の読者は一体どのような読後感想を持ったのだろうか。少なくとも続編はないと断言した評論家や文化人の面目は丸潰れでしょう。まだ潰れる顔が残っていればの話ですが。

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    1Q84 BOOK 1

    1Q84 BOOK 1

    • 著者:村上 春樹
    • 出版社:新潮社
    • 発売日:2009/05/30
    • メディア:ハードカヴァ
    • 目次:見かけにだまされないように / ちょっとした別のアイデア / 変更されたいくつかの事実 / あなたがそれを望むのであれば / 専門的な技能と訓練が必要とされる職業 / 我々はかなり遠くまで行くのだろうか? / 蝶を起こさないようにとても静かに / 知らないところに行って知らない誰かに会う / 風景が変わり、ルールが変わった / 本物の血が流れる実...


    1Q84 BOOK 2

    1Q84 BOOK 2

    • 著者:村上 春樹
    • 出版社:新潮社
    • 発売日:2009/05/29
    • メディア:ハードカヴァ
    • 目次:あれは世界でいちばん退屈な町だった / 魂のほかには何も持ち合わせていない / 生まれ方は選べないが、死に方は選べる / そんなことは望まない方がいいのかもしれない / 一匹のネズミが菜食主義の猫に出会う / 我々はとても長い腕を持っています / あなたがこれから足を踏み入れようとしているのは / そろそろ猫たちがやってくる時刻だ / 恩寵の...


    一九八四年

    一九八四年

    • 著者:ジョージ・オーウェル(George Orwell)/ 高橋 和久(訳)
    • 出版社:早川書房
    • 発売日:2009/07/18
    • メディア:文庫
    • 目次:Nineteen Eighty-Four / 附録「ニュースピークの諸原理」/ 解説(トマス・ピンチョン)/ 訳者あとがき

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    コメント 4

    蛇尾

    蛇尾です。

    1人称単数で書かれた小説はアテにならないbyホルヘス(スプーキーな恋人)は、その通りですねぇ。A・クリスティの「アクロイド殺し」は、読んだ人はみんな、そんなのアリって思いますよね。また、筒井康隆の童話「ジャングルめがね」もこの手法をうまく使って、最後にドンデン返し。(大人が読めば、伏線の場面でアレ!って感じになりますが)

    映画の「シックス・センス」、これは、1人称で語られていませんが、あれだって「カンの鋭い子供の妄想」と思えば、ほぼ納得がいきます。(当然、映画はそんな風に終わりませんが)

    ところで、村上春樹ですが、ボクは「ダンス・ダンス・ダンス」以降、長編を読んでいません。デビュー当時は、春樹マニアを自称していましたが、長編が苦手なもので、だんだん遠のいてしまいました。(それと老眼が進んで本を読むのが疲れます)
    ですから、「1Q84」も未読です。sknysさんが薦める「1Q84」を読むための村上春樹作品をこっそり教えてください。

    by 蛇尾 (2009-10-27 11:27) 

    sknys

    蛇尾さん、コメントありがとう。
    1人称小説は眉に唾つけて読み進まないと、コロッと騙されちゃう^^
    「ジャングルめがね」は語り手が「ファンタジイ」と断っているので
    何でもありです。
    強いて言えば、作者(筒井康隆)の頭がおかしい。
    『ロートレック荘事件』も叙述トリック・ミステリィですね。

    『シックス・センス』は良く出来ていますが、
    『アクロイド殺し』の映画化は難しいでしょうね。
    映画『デッドゾーン』も頭のおかしい男の妄想かもしれないというところに
    リアリティがあって怖い。

    作家がワープロで書くようになってから小説が長くなったと
    苦言を呈したのは倉橋由美子だったかな?
    村上春樹の「長編小説」も長すぎると思います。
    上下2巻で完結と見せかけて、後から3巻目を出すのも止めて欲しいな。
    冒険ファンタジー・シリーズじゃないんだから‥‥。

    村上ワールドの「動物」たちには気味悪いところがあります。
    『東京奇譚集』に収録されている「品川猿」にはギョっとさせられました。
    リアリズムの壁がガラガラと音を立てて崩れ去ります^^;
    by sknys (2009-10-28 01:42) 

    ふじにぃ

    昔の記事にコメントします(笑)。

    今年、約20年ぶりに「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読み返してみました。当時、村上春樹氏はかなり好きだったのですが、その当時の最高傑作だと思っていました。今読んでも僕には絶対これは書けないなと思います。

    ちょっとだけでも村上氏の書き方を参考にしてみたいなと思ってブログを書いています。1Q84は読んでみたいな。
    by ふじにぃ (2016-08-18 00:40) 

    sknys

    ふじにぃさん、コメント遅れてすいません。
    読者からのメールに答えた『村上さんのところ』(新潮社 2015)の中で、
    『世界の終わりとハードボイルド‥‥』は今ならもっとうまく書けたけれど
    「あのときはあのときでベストを尽くした」と答えています。

    『1Q84』もハードボイルド・パラレルワールドで面白いですよ^^
    3巻目(BOOK3)は書かなくても良かったんじゃないかと思いますが、
    村上さんは続編(BOOK4)を「書こうかどうしようか、長いあいだ
    ずいぶん迷った」そうです。
    by sknys (2016-08-21 19:49) 

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