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フォンタネルの復讐 [m u s i c]



  • さて、最後にジルのもとにあらわれて、彼の魂を一挙に罪悪と涜神の淵に運んでしまったのが、先ほども述べた、悪名高いフィレンツェの魔術師フランソワ・プラレチである。この男だけは、今までのインチキ道士に対するのとは大いに違って、ジルも心からの傾倒ぶりを示した。/ 裁判調書によると、プラレチは1440年フィレンツェ近くのピストイアに生まれ、聖職者を志望し、アレッツォの司教によって僧籍を与えられたが、まもなく、フィレンツェの医者ジャン・ド・フォンタネルの弟子になって、魔法と錬金術を学び、しばしば師匠とともに、悪魔を喚び出すまでになった。/ あるときは、悪魔は20羽のカラスになって出現し、またあるときは、美貌の青年のすがたをして現われた。師匠のフォンタネルはいつもその悪魔に、牡鶏や、鳩や、雉鳩などを捧げていたという。
    澁澤 龍彦 「ジル・ド・レエ候の肖像」


  • 釣り針の先に括りつけられた餌(1ドル紙幣)に喰いつこうとしている幼児の水中写真‥‥《Nevermind》(DGC 1991)のアルバム・カヴァが揶揄しているところの意味、産まれた時からマネーという擬似餌針が垂らされたプールにドップリ漬かっているという資本主義批判については、夥しい言説が流布しているので改めて言うまでもないだろう。しかし、そのパロディ作の1つ《Fontanelle》(Reprise 1992)に対して男たちが、まるで失語症に陥ったかのように沈黙を守っているのは不思議な眺めだった。フルチンの男児には笑い転げても、節くれだった指に乗っている全裸の幼女(人形)はジョークに転嫁出来そうもないと本能的に察して見なかったことにしているのだろうか。水中で泳ぐ男児や1ドル札、割礼されたペニスの意味については嬉々として喋っていたのに、あからさまな幼女のヌード(それが人形なのにも拘わらず)に語る言葉を失ってしまうのは「男たちのディスクール」とでも呼ぶべきヌルマ湯に耽溺して、躰がブヨブヨに浮腫んでしまったからなのかもしれない。

    股間を開いている全裸の幼女人形が節くれだった指の上、手の中にある。背後の楕円形の鏡には左手の指先が映っていない。水中で泳ぐ幼児と同じく、この写真も欲望の対象をテーマにしている。言うまでもなく前者はマネーという「もの」であり、後者は「人形」それ自体である。彼女(フォンタネルと呼ぼう)を一笑に付せない理由は見るものを自動的に加害者に引き摺り込む、この写真の構造そのものにある。男たちの「幼女姦」という抑圧されている暗い欲望を抉り出す。顔のない謎の人物の正体、匿名性というヴェールに隠れた手の所有者、鏡に映っているのは今まさに写真を見ている自分自身の顔ではないかという疑念。パロディというと安直な首の挿げ替えやコラージュ画を思い浮かべがちだが、一見パロディとは気づかないくらいオリジナルを改変したフォンタネル人形。ヌードの幼児を人間から人形へ、性別を男から女に変えることで、欲望の対象を転化させて主体から客体へ逆転させる。フォンタネルを手中にしている干涸びた指は「ネヴァーマインド」の瑞々しい手の成れの果てなのだろうか。

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    この挑発的なフォンタネル人形の写真を撮ったシンディ・シャーマン(Cindy Sherman)は男女様々な人物(映画女優、ファッション誌のモデル、男性誌のピンナップ・ガール、名画の中の人物など)に扮装仮装したセルフ・ポートレイトを撮り続けて来た女性写真家で、近年はハンス・ベルメール風の関節人形の写真も撮っている。自分以外の他者になりたいという思う欲求は、変身ヒーローなどの無邪気な変身願望と解され易いが、自己崩壊の可能性も秘めている危険な行為でもある。どんな人物やものに変身しようとしても、もう1人の自分であることからは決して逃れられない。女装趣味で有名なシュルレアリストのピエール・モリニエや1匹の毒虫に「変身」したグレゴール・ザムザ君の運命を想ってみても良い。ベルナール・フォーコンの美しいマヌカン少年たちやローリィ・シモンズのミニアチュール人形を挙げるまでもなく、「人形愛」も自己愛の変形(鏡に映った、もう1人の私)なのだから。それが逆に憎悪に変わると他者を呪う「呪物」として全く別の意味を持って来る。

    フェティシズムという観点から眺めれば、それが生体解剖的だったりネクロフィリア風だったりしても「部分」として切り取って行く嗜好に変わりはない。性的対象物が下着やハイヒールに留まっている限り問題は少ないが、人体の一部になると猟奇的な犯罪性が高くなってしまう。泳ぐ幼児のように、なぜ生身の幼女ヌードを撮らなかったのかという理由は改めて説明するまでもないだろう。フォンタネル人形という代償物だからこそ本質に肉迫出来るとも言える。「fontanelle」とは解剖学術用語で「泉門・ひよめき」(乳児の頭蓋骨の縫合していない部分)のこと。人間として成長していない未発達の部分、脆弱さの象徴としてアルバム・タイトルに採用されたのではないだろうか。フォンタネルの首もベルメール人形の頭部と同じように胴体の上に乗っているだけで、指先で触れただけでポロッと下へ落ちてしまうはずだ。忌避、自嘲、諧謔、不快、昂奮、無関心、怒り、憐憫、嫌悪、拒否、断崖、恐怖、編愛‥‥フォンタネル人形は鑑賞者の女性観を暴露する「踏み絵」的な性格を持つ。

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    Babes In Toylandは米ミネアポリス出身の3人娘。Lee Ranaldo(Sonic Youth)がプロデュースしたメジャー1作目の《Fontanelle》は、アルバム・ジャケだけでなく中身の方もNirvanaを意識したグランジ・サウンドになっている。Kat Bjellandの可愛いルックスや鳴き声に油断していると突然威嚇されて痛い目に遭う。ネコ撫で声から絶叫パンクに豹変するギャップが魅力的で、手懐けるのに苦労しそうなタイプ。グランジ風のギター・リフが女版ニルヴァーナを想わせる〈Bruise Violet〉、ロリ声と絶叫ヴォイスの軟硬二枚舌攻撃に翻弄される〈Right Now〉〈Won't Tell〉〈Spun〉、疾走するパンクの〈Bluebell〉、メタル風の〈Handsome & Gretel〉‥‥形骸化したパンクやメタルの様式美の鋳型に行儀良く収まっている部分も少なくないけれど、それを突き破る瞬間がKatのヴォイスにある。裏ジャケで胸を露出したPJ Harveyのデビュー・アルバム《Dry》(Too Pure)と共に、1992年を象徴する「ヌード・アルバム」ではないかしら。

    一見何の変哲もないように見える6曲入りミニ・アルバム《Painkillers》(1993)には幼女人形の仮面の下の素顔のような一筋縄ではない秘密が隠されていた。ラストに収録されているCBGB'sのライヴ曲〈Fontanellette〉が34分以上もある!‥‥それがNeil Youngの《Arc》(1991)のような長尺ライヴ曲であるわけはなく、実は立て続けに全11曲を演奏した「ライブ版ミニ・フォンタネル」とでも呼ぶべきものだった(PJ Harveyのデビュー・アルバムの初回盤には全11曲のデモ・ヴァージョンが入っていた!)。Babes In Toylandの《Painkillers》は新曲5曲(再録1曲を含む)とライヴ全11曲をコンパイルした異形の覆面アルバムだったのだ。「呪い人形が襲って来る?」‥‥まるで、George Harrisonの「万物流転」庭園から抜け出て来たようなオカルティックなアルバム・カヴァ(Cindy Sherman撮)ではないか!

    金髪の人形がハロウィンの大きすぎる仮装用マスクを被っている姿は、フォンタネル人形とは逆コンセプトの構図であることを顕わす。玩弄された人形(強姦された幼女)という立ち場が被害者から加害者へ逆転する。今度は彼女の方が怪物化して、呪い人形のようにレイプ魔たちに襲い掛かるのである。フォンタネル人形の復讐劇──そうすることでしか彼女が受けた苦痛と恥辱を鎮めることは出来ないのだ。グロテスクな怪人が美女たちを惨殺する使い古されたB級ホラー映画のクライマックスを嘲笑うかのように、呪い人形が男どもに襲い掛かる。野太い悲鳴を上げて男たちが逃げ出す‥‥。パワーアップした新曲、そしてCBGB'sのライヴ・パフォーマンスもオリジナル(スタジオ録音)よりも迫力が漲っている。悪魔に取り憑かれた少女のような変幻自在のKatのヴォイス(MC声がチョー可愛い!)に圧倒される‥‥ライオット・ガルゥ〜〜〜〜〜〜〜〜。

    何らかの理由で素顔を隠すために用いられる「仮装・仮面」という虚構が逆に覆面の下の本性を露わにしてしまう。強盗犯やレイプ魔がマスクを被っているのは素顔を隠すためではなく、仮装や仮面というコスチュームやアイテムは常軌を逸した行動を可能にする一種の武装品や戦闘服のようなものではないだろうか。気弱な少年も仮面を被り仮装することで正義のヒーロに変身する。実はオドロオドロしい仮面よりも、その下に隠されている素顔を想像する方が怖いのではないか、究極の恐怖は美少女そのものではないかという妄想も浮かぶ。たとえばフェデリコ・フェリーニ監督のホラー映画『悪魔の首飾り』に現われる「白いボールと戯れる金髪の少女」のように。かつて美少女を地下室に監禁して、美しい蝶々のように蒐集していたテレンス・スタンプの首が転がる!‥‥これは美少女 / 悪魔(Marina Yaru)のフェティシズムだ。

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    シンディ・シャーマンの「ペインキラーズ」は「フォンタネル」の手と指の所有者と人形の主→客関係を、人形という怪物(主体)が見る者(客体)へ逼って行く構造へ再逆転させることで相対化させている。彼女はオリジナルの泳ぐ幼児(男)を人形(女性)化することでことで批判的に客体へ転位させ、さらに仮面を被せて仮装=怪物化させることで、もう1度主体へ変位させる。彼女にとって「人形」や「仮装」は女性の客体と主体性、被害者と加害者を具現化させるためのオブジェであり、行為なのだろう。映画女優もファッション誌のモデルも男性誌のピンナップ・ガールも名画の中の人物も鑑賞者に見られる被写体としての存在だが、シンディ・シャーマンが彼女たちに仮装すると逆に鑑賞者が見られる存在に反転して、グロテスクにデフォルメされた人形が彼らに襲い掛かる。フォンタネル人形を見る男たちが逃げ腰になったのも無理はないだろう。

    「fontanelle」の語源は中世フランス語の「fontanele」(little spring)に由来しているが、《Painkillers》に収録されていたライヴ版では、さらに「-let」という指小辞を加えて「fontanellette」という形にしている。「フォンタネル」は少年たちを拉致しては惨殺を繰り返していた15世紀フランスの「幼児殺戮者」ジル・ド・レエ侯(青髭公のモデルといわれる)が懇意にしていた魔術師の名前でもあるらしい。ちなみに「fontenelle」と1字違いに綴ると「フォンタナ」(Fontana)と同じく、月面クレータの名称の1つ「フォンテネル」ということになる。《Fontanelle》には多孔質のオブジェのようなものが人形の背後に映っていた。妖精たちが棲む「小さな泉」からは「水」、たとえば《Nevermind》の「水中」を連想させるが、青い地球ではなく、干涸びた「月面」だったとは?‥‥。

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    1990年代に入ってからシンディ・シャーマンは自分自身を被写体にした「セルフ・ポートレイト」から一転して、人形を解体〜合成したり、人形にグロテスクなマスクを被せて仮装させた写真を撮り始める。『Specimens』(Kyoto Shoin 1991)には幼児人形、マネキン、作りものの乳房、奇怪なマスク、ダッチワイフ、縫いぐるみ、人体模型などを使った、B級ホラー映画や悪夢に出て来そうな気色悪い写真が並ぶ。指の上に乗った幼女人形や脚立に坐るマスク人形、「フォンタネル」や「ペインキラーズ」のオリジナルと思われる写真も収録されている。決して素顔を明かさない「千の顔を持つ女」‥‥「どの写真にも、本当の私はいない。こうしてあなたが撮影する時も、私は芸術家らしさを装うのよ」とインタヴューで語っているけれど、ロバート・メイプルソープが撮ったポートレイト〈Cindy Sherman〉(1983)だけは「素顔」に近いような気がします。

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    Fontanelle

    Fontanelle

    • Artist: Babes In Toyland
    • Label: Reprise
    • Date: 1992/08/11
    • Media: Audio CD
    • Songs: Bruise Violet / Right Now / Bluebell / Handsome and Gretel / Blood / Magick Flute / Won't Tell / Quiet Room / Spun / Jungle Train / Pearl / Real Eyes / Mother / Gone


    Painkillers

    Painkillers

    • Artist: Babes In Toyland
    • Label: Reprise
    • Date: 1993/06/22
    • Media: Audio CD
    • Songs: He's My Thing / Laredo / Istigkeit / Ragweed / Angel Hair / Fontanellette (Live at CBGB's - Bruise Violet / Bluebell / Angel Hair / Pearl / Blood / Magick Flute / Won't Tell / Real Eyes / Spun / Mother / Handsome & Gretel)


    Specimens

    Specimens

    • Author: Cindy Sherman
    • Publisher: Kyoto Shoin
    • Date: 1991/01
    • Media: Hardcover

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