空を這う僕たち [b o o k s]
森 博嗣 『ダウン・ツ・ヘヴン』
『スカイ・クロラ』(中央公論新社 2001)は「スカイ・クロラ」シリーズ(全5巻)の第1作目にして最終巻である。時系列順に読むのなら2作目の『ナ・バ・テア』(2004)が第1巻ということになるけれど、ここでは実際に読んだ(出版された)順に沿って考察して行くことにする。このシリーズに登場する5人の主人公たちは、すべて「僕」という1人称で統一されているが、必ずしも同一人物の男性だとは限らない。1人称単数の独白体なので、客観的な事実関係や、その世界観が明示されない(僕の知らないことは基本的に読者にも分からない)。過去なのか、近未来なのか、日本なのか、外国なのか、架空の国なのか、あるいはパラレル・ワールドなのか?‥‥少なくとも「世界」は平時ではなく戦争状態にあるらしい。スティーヴ・エリクソンの『黒い時計の旅』のように。読者はボルヘスが指摘した1人称単数という「当てにならない話者」の言述の信憑性を疑っておくべきでしょう。
「僕」(カンナミ・ユーヒチ)は兎離州(ウリス)基地に配属された戦闘機のパイロット。一般人ではなく「キルドレ」と呼ばれる、永遠に行き続けて決して大人にならない子供たちの1人。ルームメイトの土岐野、整備士の笹倉、上司の草薙水素(クサナギ・スイト)、彼女の妹(娘?)の瑞季、売春婦のフーコ‥‥。前任者の栗田は草薙に殺されたという。ゲスト・ハウス(宿泊施設)へ夕食に招かれた「僕」は、草薙が自殺願望を持っていることを知る。戦闘で同僚の湯田川を失ったチームは新しい基地へ移動して大プロジェクトに挑む。ボンネットに黒猫(黒豹?)のマークを付けた敵機とのバトルで犠牲者を出した部隊は、生き残ったパイロットたち(鯉目兄弟と三ツ矢碧)を引き連れて兎離州へ戻る。「僕」に「貴方はクリタさんの生まれ替わり」だと告げる三ツ矢‥‥。悲鳴を聞いて2階の指令室へ駆けつけると三ツ矢が草薙に銃口を向けていた。草薙が殺してくれと言ったらしい。「僕」は三ツ矢の代わりに、顳かみにピストルを向けて今まさに自殺しようとしている草薙を射殺する。
「キルドレ」(kildren?)とは大人に成長しないで永遠に行き続ける子供たちのこと。生命力も強く病死することも少ない。「子供」といっても小・中学生レヴェルの体型と知能ではなく、少なくとも戦闘機の操縦が可能な体力と知識を備えている10代後半の少年少女たちである。三ツ矢碧がキルドレ出生の秘密を「僕」に明かす。「キルドレって、私たちの会社の商品名だったって知ってる? 遺伝子制御の開発の途中で貴方たちが突然生まれて、その新薬につけられるはずだった名称が、貴方たちを表わすようになったの」と。突然変異体としてのキルドレ‥‥「遺伝子制御の開発」とは老化遺伝子の排除、つまり不老不死の研究だろう。淘汰されて生き残った1割のキルドレが「パーフェクト・サバイバ」で、戦闘パイロットという「兵器」として消費されている。彼らの過去の記憶は一応に曖昧で、クローン人間やレプリカントの捏造された記憶を想わせなくもない。
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『ナ・バ・テア』の主人公「僕」は草薙水素。「僕」と名乗っているから「男」だという先入観は裏切られる。「僕女」と伝説の英雄ティーチャとの初飛行(戦闘機は共に翠芽マーク6)。同僚の薬田(クスリダ)は丸メガネの色白顔。ティーチャ、草薙、薬田の3機が爆撃機4機を護衛する。基地に新機・散香マークA2が搬入される。大プロジェクトで13機中5機が墜落!‥‥同僚の辻間が帰還しなかった。栗田、比嘉澤の新人2名が補充要員として配属される。本部から甲斐という女の上司が来て、「女性のキルドレを指導的なポストに起用したい」と打診される。ティーチャ、草薙、比嘉澤、栗田の4機で偵察中に比嘉澤が墜落死する。ティーチャの車に同乗して山の中の古い屋敷(売春宿)へ行くが、「僕」はフーコを追い帰す。その後、2週間の研修(海上訓練のプログラム)に参加。ティーチャと一緒に出張して新悦機・染赤のテスト飛行(ティーチャが乗る泉流と空中ダンス)。2週間の休暇を取って帰郷‥‥妊娠していることが分かって堕胎手術をすることになるが、未来の父親の強い意向で子供は生かされる。ティーチャの突然の退職。「僕」は敵機クロネコと遭遇する。
「ティーチャ」という名前は本名ではなくコードネームである。飛行中のパイロットが無線交信する場合はコードネームで呼び合うことになっている。草薙はブーメラン、栗田はデッドアイ、比嘉澤はクリスマス‥‥というように。草薙水素がティーチャのいる基地への配属を希望したのは、「伝説の英雄」に憧れていたから。彼は非キルドレにも拘らず、華麗に宙を舞う撃墜王だった。しかし、所属する会社がプッシャ・タイプ(エンジンの後部にプロペラがある)の戦闘機を主力とする方針に反対(?)して退職した後に、ライヴァル(敵機)となって草薙の前に現われることになる。ボンネットに黒猫をマーキングした戦闘機に乗って。ティーチャ(teacher)が快足チータ(cheetah)のモジリならば、「黒猫」ではなく「黒豹」と呼んだ方が正確なのだが。
「スカイ・クロラ」に登場する戦闘機はプロペラがエンジンの前にあるトラクタと、後部にあるプッシャ・タイプに2分される。ティーチャが乗っていた翠芽(スイガ)はトラクタ、草薙の愛機・散香(サンカ)はプッシャで、新型機の染赤(ソメアカ)は双発のプッシャ、タンデムの偵察機・泉流(センリュウ)も無尾翼のプッシャである。散香が第2次大戦中に開発された震電を彷佛させるように「大戦から50年」も経ているのに、未だにジェット・エンジンが実用化されていない世界。しかも国家間の戦争ではなく、ティーチャがライヴァル会社へ転職して敵となって戦うことが可能な民間の「戦争」である。見世物としての遊戯的な戦争?──サッカーや野球などのスポーツと違うのは撃墜されたパイロットは死ぬ危険性が高いし、空爆や空中戦(陸上)で戦闘員だけでなく一般の民間人も巻き込まれる可能性があること。ゲーム化された局地戦だとしても、お互いの命が懸かっているのだ。
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『ダウン・ツ・ヘヴン』(2005)の「僕」も草薙水素。現役パイロットとして飛び続け(死に)たい「僕」と、広告塔という名の管理職として温存したい会社の意向が露わになる。僚機の桜城(サクラギ)を墜とした敵機との空中戦で首に軽傷を負った「僕」は入院する。情報部の甲斐と整備士の笹倉が見舞いに訪れる。中庭で「頭に包帯を巻いた少年」と出逢う。記憶喪失の少年カンナミと夜間飛行する夢。屋上で写真を撮られ、記者に取材を申し込まれる。クサナギ中尉の記者会見。散香と甲斐の泉流で内陸部の基地へ向かう。単独フライト後に講習会を開く。17名の聴講生の中に、死んだ比嘉澤無位(ヒガサワ・ムイ)の弟と函南少年がいた。函南が「僕」に語る夢。基地から飛び立ち、都会の空港に舞い降りる。本社に赴き、甲斐の上司・萱場(カヤバ)から「国家的プロジェクト」への出演を要請される。ビルの谷間で「戦闘、実戦、一騎打ち」‥‥相手はティーチャ。彼とホテルのラウンジで再会。夢にまで見て待ち望んでいたティーチャとの戦い。翌日は小雨で順延。軽量化した散香でテスト低空飛行。高揚する「僕」‥‥しかし、実戦バトルは空砲だった。
『フラッタ・リンツ・ライフ』(2006)の「僕」は栗田仁朗(クリタ・ジンロウ)。フーコの部屋から基地への帰途中、ルームメイトの土岐野のバイクと出会う。「僕」はサガラの家に寄る。土岐野とフライト中に敵の爆撃機と遭遇したが撤退‥‥猫マークの戦闘機とは戦うなというのが草薙大尉の命令だった。草薙、土岐野、「僕」の散香3機で出撃して、敵の新型双発3機を撃墜。墜ちた本庄とサガラの関係。同僚の松永と安達が帰還しない。町外れのカフェで、YA新聞の記者・杣中(ソマナカ)に話しかけられる。サガラとクサナギは幼馴染みで同じ歳だった。土岐野と4発飛行艇の護衛の任務につくが、「僕」はエンジン・トラブルで道路に不時着。基地内の駐車場で開催されたフェスティバル、宿舎の中庭に相良が現われて、ある組織に追われていると聞かされる。笹倉のバイクで基地から脱出して彼女を逃がす。「母の葬式」に参列するために外出する草薙の護衛として同行する。彼女の妹ミズキと会話。相良が草薙を狙撃するのを阻止しようとして腹部を撃たれる。入院〜療養所〜研究施設へ。人員補填要員として大プロジェクトに参戦するが、黒ネコに撃墜される。
『クレィドゥ・ザ・スカイ』(2007)の「僕」の正体は最後まで伏せられている。空中戦で負傷して入院中という状況は『フラッタ・リンツ・ライフ』の主人公クリタを想わせるが、病院から脱け出してフーコと逃避行、相良の許へ身を寄せてからの展開は一転してクサナギを彷佛させる。しかも「僕」は薬物を投与されたせいで記憶喪失に陥っていて、自分が誰であるかさえ分からない。「僕」=カンナミ / クサナギ / クサナギ / クリタ‥‥という1作目から積み重ねて来た整合性が、5作目に至ってガラガラと音を立てて崩れ去ってしまうのだ。「僕」が見るフーコやクサナギの夢や幻覚。経年したキルドレに起こる記憶障害や精神障害。相良の家ヘ杣中が訪れて、クサナギ大尉とクリタの死を告げる。精神科医ハヤセの診察。戦闘機の接近。「僕」と相良に追っ手が逼る。ヘリコプタに追撃されるが、複葉機で脱出した2人は秘密のアジトへ逃れる‥‥。
相良亜緒衣(サガラ・アオイ)はキルドレの秘密を握る女性科学者である。負傷入院していた草薙水素に密かに薬物を投与をして人体実験を試みる。キルドレが生まれて20年、今までに女のキルドレが出産したケースは父親もキルドレだったので、非キルドレの子供を産んだ草薙は貴重な実験体なのだ。妊娠〜出産を経験したキルドレは非キルドレに変化する。ある薬物によって非キルドレをキルドレに戻すことが可能だという実験結果を得る。裁判中の身で、当局の監視下に置かれている相良は抵抗運動を続けている地下組織のメンバーでもあるらしい。彼女は追っ手に囚われて自白を強要されるよりは自らの死を選ぶ(自殺は彼女の宗教に反する)。これでキルドレの秘密が明るみに出ることはない。草薙の出産に関わった2人の産婦人科医師が「相良」姓なのは、偶然の一致だろうか。相良亜緒衣は草薙の知り合いの老医師・相良の娘なのかもしれない。
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杣中記者の言述が客観的な事実を語っていると仮定すると、『クレィドゥ・ザ・スカイ』の「僕」は誰かという謎には次の解答が考えられる。三ツ矢が主張していた「僕」=クリタ=カンナミ説ではなく、病院から逃走したクリタを「射殺」した後でクサナギも「死」に、カンナミとして再生する「僕」=クサナギ=カンナミ説。その場合はクサナギが2人存在することになるし、『ダウン・ツ・ヘヴン』の函南少年と『スカイ・クロラ』のカンナミ・ユーヒチも「別人」ということになる(記憶の一部を共有しているが)。『ナ・バ・テア』『ダウン・ツ・ヘヴン』の「僕」=クサナギ1、『スカイ・クロラ』の草薙をクサナギ2とすると、クサナギ2のコードネームが分からないことも、函南少年の下の名前が明かされないのも腑に落ちる。キルドレ→非キルドレ→キルドレという変化だけでなく、キルドレの「性転換」をも暗示している。カンナミ・ユーヒチのコードネームは「ブーメラン」でしょう。クリタがクサナギ2として再生したという可能性はないだろうか?
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『スカイ・イクリプス』(2008)は「スカイ・クロラ」シリーズの番外編8作品を収録した短篇集。1篇を除き、本編の「僕」から一転して3人称の視点で描かれているので、描写される世界が客観的な事実と認識される。散香のエンジンを改良するササクラとクサナギの信頼関係を描く「ジャイロスコープ」。「彼」が子供を引き取ってモナミという女性と暮らす「ナイン・ライブス」。撃墜されて海に浮かぶ散香のパイロット(自分)が救助される1人称独白体の「ワニング・ムーン」。マスタの店を出た若い男(彼)が車の故障で立ち往生している女上司をバイクの後部に乗せて基地まで送る「スピッツ・ファイア」。情報部のカイが、敵機に体当たりして墜落(後に自殺)したナヤバ中尉の身代わりになるようにクサナギ少尉に指示する「ハート・ドレイン」。リーダーのサカシロが墜落死したために、マシマがフーコと初体面することになる「アース・ボーン」。
本編では隠されていた幾つかの謎が明らかにされる。特に書き下ろしのラスト2篇が深い余韻を残す。入院しているカンナミの見舞いに訪れた「彼女」が、列車内で姉の殺人(クリタ射殺)を回想する「ドール・グローリィ」。草薙瑞季はスイトの「娘」ではなく「妹」だった!‥‥クサナギの「娘」はティーチャが引き取っていたのだ。非キルドレの瑞季は成長して「音楽の先生」になっていた(もし瑞季が「娘」だとすると、『ナ・バ・テア』〜『スカイ・クロラ』の間に少なくても10年の月日が流れていることになる。相対的な時間しか明示されていないけれど、10年は長すぎでしょう)。パイロットを退職した「彼女」がレンタカーなどを乗り継いでフーコの店「Fooco」へ行く「スカイ・アッシュ」。白日夢のように現実性を欠く幸福感。郊外の家や世界の果ての店のように明るく乾いた情感が切ない。すべてはフーコが知っている?
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- 『スカイ・イクリプス』の解説を追記しました(2009/04/12)
- C★NOVELS版「スカイ・クロラ」シリーズをテクストに使いました
f is for flowers / nagono people / 4 seasons / sky crawlers / sknynx / 157
フラッタ・リンツ・ライフ(Flutter into Life)
- 著者:森 博嗣
- 出版社:中央公論新社
- 発売日:2007/05/25
- メディア:新書
- エピグラフ:海からの贈物 / アン・モロウ・リンドバーグ
- 著者:森 博嗣
- 出版社:中央公論新社
- 発売日:2008/11/25
- メディア:新書
- エピグラフ:雪のひとひら / ポール・ギャリコ
- 収録作品:ジャイロスコープ / ナイン・ライブス / ワニング・ムーン / スピッツ・ファイア / ハート・ドレイン / アース・ボーン / ドール・グローリィ / スカイ・アッシュ
2008-07-21 00:30
コメント(4)
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ストーリーが混乱していましたが、綺麗に要約してあって、
あぁそうだったとすっきりしました。
クリタがクサナギ2という推理、成る程です。
by miron (2008-07-24 20:48)
mironさん、コメントありがとう。
「あらすじ」と「キーワード・人物」の2本立ての記事にしてみました。
どうしても森ミステリとして読んでしまうので、整合性を求めてしまう^^
函南少年の下の名前は何と言うのか?‥‥「ユーイチ」でしょうか。
「カンナミ・ユーヒチ」と兄弟だったりして^^;
双子なら記憶の共有も可能かもと思ったのですが、
実は未来の記憶(予知夢?)なんですよね。
『スカイ・イクリプス』を読んで、疑問が1つ解消しました。
草薙瑞季は「妹」だった(「娘」はティーチャが引き取っていたのだ!)。
もし「娘」だとすると、『ナ・バ・テア』〜『スカイ・クロラ』は
少なくても10年の月日が流れていることになる。
相対的な時間しか明示されていないけれど、10年は長すぎでしょう^^
by sknys (2008-07-24 21:31)
『スカイ・イクリプス』を読みました。
夢の様なハッピィエンドも文章も、構成も、とても面白かったです。
「僕」=クサナギ=カンナミ説、かなりいい線いっていると思いました。
「ドール・グローリィ」で、カーディガンの寸法があっていたら、カンナミの体は、スイトの体になっている?
by miron (2008-08-30 16:51)
特に書き下ろしの2篇が良いですね。
「ドール・グローリィ」は成長した草薙瑞季がチャーミング♪
クサナギもカンナミも少食だから、小枝のように痩せているのだ。
草薙水素なんて、胸が洗濯板ですから^^
クルマを乗り継いでフーコの店に行く「スカイ・アッシュ」も
砂漠のように乾いた情感が切ない。
すべてフーコが知っている?
by sknys (2008-08-31 21:47)