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ジョニの肖像 [a r t]

  • ドナ・アングシュティアは、マネをベッドに縛りつけなければならなかった。そして、雨戸を閉め、隙間という隙間に布切れを詰め込んだのだが、五昼夜の長きにわたって絶え間なく響くマネの叫び声は、近所の住民の耳にも届いた。どうとでもなれと捨て鉢になったアングシュティアが、もはやなんの役にも立たないフウキンチョウの羽を使って、愛する夫の耳を文字通りこすって切り落としたのである。かつて一世を風靡し、痛み、怒り、苦しみなどを吸収してきた羽が、その中にため込んだものを一気に噴出したかの感があった。マネ・ペーナの亡骸をわずかながら行き残っている家族、友人、同僚、学生、そして親類縁者たちの前に出すために、葬儀屋は千切れて皮のようになった両耳を元通りに縫い合わさなければならなかった。
    カレン・テイ・ヤマシタ 『熱帯雨林の彼方へ』

  • それにしても奇妙な感覚に囚われる「肖像画」である。《Turbulent Indigo》(Reprise 1994)のジャケットを飾るJoni Mitchellの「自画像」が、左耳を切り落とした直後のゴッホ(Vincent van Gogh 1853−1890)の有名な〈自画像〉(1889)を単に模しているからというわけでもない。パロディにしては何故か笑えないジョニの「自画像」をゴッホのオリジナル作品2点と比較・対照することで、その秘密を解明出来るだろうか。一見して気づくゴッホのA〈耳を切った自画像〉(パイプを咥えた男)との明らかな相違は〔1〕背景の色彩・色合いと〔2〕パイプの有無にある。ただしゴッホは同時期にパイプ無しのB〈耳に包帯をした自画像〉も描いていて、ジョニが模倣したのは後者の方だと看做すことも可能なのだが(特に画面下半分を占める外套部分はBにソックリ!)、逆に顔の表情はAに近い(Bは異常だ!)ことを考え合わせると、A・B2作を参照した可能性も否定出来ない。

    〔1〕についてはゴッホ版の、明るいオレンジ色と真紅で構成された上下2分割の背景が前面の着衣(緑色のコート)と鮮やかなコントラストを見せているA、パステルカラーの萌黄色をバックにしたゴッホの右に「浮世絵」、左に白いカンヴァスとイーゼルの一部が見えるBに対して、ジョニ版の方は外套や帽子と同系寒色の暗く沈んだ藍色、しかも後期ゴッホ特有の渦巻き畝るタッチの背景で、「原画」2点と「模写」、橙+赤、薄緑と青〜濃紺の3枚の「肖像画」を比べてみるまでもなく、ひどく異なった印象を受ける。もちろんジョニの意図するところは、この背景と全体の陰鬱なトーンこそがアルバム・タイトルの《タービュレント・インディゴ》、即ちゴッホの〈荒れ狂った藍色〉なのだと言いたいのだろう(《風のインディゴ》という国内盤の邦題──「蒼い疾風」だって!?‥‥ゴッホを悩ました南仏のミストラルのことなの?──は恥ずかしい)。よりゴッホ的に描くことでオリジナルとの違和感を際立たせ、逆に彼(彼女?)の本質を露わにしたと言い換えられるだろうか。

    〔2〕から連想されるのは、たとえばルネ・マグリットの〈これはパイプではない〉という人を煙に巻いた絵画であり、ゲフィン時代のPVの中でタバコを喫い捲る、「嫌煙権」に無言の抗議をしているようなジョニであり、その勇姿はアンジェイ・ワイダ監督の傍若無人のヒロイン像へとリゾルヴして行く。オリジナルAについて言えば「パイプと煙草の袋」を描き加えた〈ゴッホの椅子〉(1889)や、ウィンセントにとってパイプ煙草が「自殺予防の薬」だったという記述(『ゴッホの手紙』)を思い出させずにはおかない。「パイプ無し」のBの方がAに比べて「自殺願望」が強い、つまり「死」に近い。〔2〕から導き出される逆説的な解答は「自画像」の中のジョニがパイプの代わりに紙巻きタバコを咥えていたら鑑賞者の哄笑を誘ってしまう、薄っぺらなパロディ作に堕してしまうということである。無神経なパロディ化を排すためにも、パイプ=タバコを彼女自身の唇から奪い取ったのだ。〈ジョニの肖像〉の背景──左側の濃紺に比べて右側の白っぽく渦巻くタッチのブルー〜ホワイト部分が、オリジナルAに描き加えられている「パイプの煙」のように見えないだろうか。「これはパロディではない!」と額縁の中のジョニが寡黙にも訴えているのだ。

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    〈ジョニの肖像〉から流出する「奇妙な感じ」は果たして、それだけだろうか。ここで、ごく初歩的な質問をしてみたい──ゴッホが自ら切り取った耳は右か左か?‥‥そんなの右耳に決まっているじゃんと答えた人は「自画像」の成り立ちに疎い人である。何故ならゴッホは「自画像」を描く際に「鏡」を使用しているため、カンヴァスの中の肖像が左右逆の「鏡面映像」になってしまう事実を看過しているのだから。同様に〈カンヴァスの前の自画像〉(1888)の中でパレットを持っている「右手」も実は逆で、彼が右利きなら衝動的に自分の耳を切り取る時は──クリスマス・イヴの夜に「友人」の耳を切りつけようとした際は兎も角──右手に剃刀(今どきの少年少女はカッターナイフ?)を掴んで左耳を切り落とすだろうことも、安直なミステリィ・ドラマ宛らに推理出来る。しかし〈ジョニの肖像〉に目を転じると、途端に訳が分からなくなって行く‥‥。

    仮定は次の2通りしかない──ジョニもゴッホと同じく鏡を利用して(写真の裏焼きのように)左右逆に描いたとする立場の〔1〕と、写真(セルフ・ポートレイト)を利用して20世紀末的に自分自身を「他人の顔」を眺めるように左右正常に描いたとする〔2〕。〔1〕ならば切り落としたのは左耳だし〔2〕ならゴッホと逆の右耳になる。さらに困ったことに、今までジョニの映っている写真や映像を繁々と見たことはないし、たとえば宮沢りえ嬢のように顔の左右を決める特徴的な違いも認められない。〈ジョニの肖像〉が左右逆の〔1〕だという判断を下すことは難しい。それどころか、今まで彼女が描いて来た「絵画」、自作のアルバム・ジャケットを何度も飾ったことのある「自画像」の中の彼女たち対しても確信が持てなくて、輪郭がアヤフヤになって来る。

    常識的に考えて現在、鏡を利用して「自画像」を描いている画家は稀でしょう。今は時間的誤差の少ないポラロイドやデジカメがあるし、ヴィデオ・カメラ&モニタを駆使して「自画像を描いている画家」をリアルタイムでディスプレイしながら「自画像を描いている画家の自画像」を画家本人が描くという合せ鏡の無限観照な芸当も可能になった。しかも、この場合〔2〕は当然左右逆には映し出されない。ゴッホの左右反転した「自画像」は単なる技法上の制約によるものだったが、ジョニの正逆どちらとも受け取れる「自画像」には何か作為的な香りが漂う。CNNニュースは左右が逆に映らない、つまり正常に映る「真実の鏡」なるものを発明したアメリカ人のことを伝えていた。もし仮に、これが近い将来に実用化された曉には、世の男性たちの多くが毎朝ヒゲを剃る度に不思議な気分に陥るのではないだろうかと、罅割れた鏡を眺めながら想像する。

    ジョニが切り取った耳は右か左か?‥‥という難題は依然として青黒い薮の中に隠れていて容易に探し出せそうもないし、どちらに転んでも同じ「解答」しか引き出せそうにない。もし〔1〕左右逆=左耳なら、今まで写真や映像等で見慣れて来た彼女の肖像の「裏返し」なのだから奇妙に見えて当然だし、〔2〕左右正=右耳なら、ゴッホは左なのにジョニは右という模写にしては不可解な謎が残ることになる(ゴッホが試みた複製版画からの模写なら、ミレーやドラクロワの原画とは左右逆になるけれど)。いずれにしても「奇妙な肖像画」であることには変わりはないが、それよりも女性SSW(自作自演歌手)が左右を反転した(?)架空の2次元世界内と雖も、自ら片耳を切り取り去る行為の象徴的な意味について深く考えた方が良いのかもしれない。

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    手の込んだ「自画像」に隠された秘密を説く鍵は完成した「作品」の中にではなく、その過程の中に潜んでいるような気もしないではない。なぜ画家たちは執拗に「自画像」を書き続けるのか?‥‥それは「自己表現」などという鈍重な評論家たちが縋り着く得体の知れない空虚なものでも、〈私小説〉的な露悪趣味でも、素人写真の記録性でもない。ゴッホには、このことが良く分かっていたので、自分の描いた絵が《コップやスプーンに付いた汚れのように、この空虚さの周りにくっついていた》と書くことが出来たのだった。言うまでもなく「空虚さ」(vacancy)とは「自己」の別名である。もう1人の自分(他者)によって唯一無二の自己を確認する方法──それは合せ鏡の観照のように際限のない(タマネギの皮剥きのような)虚しい作業ではないのか。

    2つに分離した「自己」は主→客の間で揺らぎ、虚しく往復運動を繰り返し、ケロイド状に溶解し、フランシス・ベーコンの絵画のように歪んで行く。あるいは逆に、その反作用から主体である画家(生身の人間)の方が崩壊して行かざるを得ない。〈ゴッホの自画像〉──カンヴァスの中の「Gの肖像」は未だ歪みはしないけれど、その代わりにゴッホ自身の方が歪む。《彼の絵が彼を無理強いさせ、限界を超えた地点まで連れて行ってしまったのだ》。そして、その痕跡は数多くの「風景画」に残留することになる。《黒い炎のように燃え上がる巨大な糸杉や、めくるめく光の渦巻きを見せる星月夜》や〈荒れ狂った藍色〉の空に100年後の人々が心を揺さぶられるのは、それらがゴッホ自身の化身に他ならないからである。「自画像」だけでなく「静物画」や「風景画」も、ゴッホにとっては「歪んで罅割れた鏡」に映る「自己」の無数の破片だったのである。

    「自己存在」と呼ぶからには、その対極には「不在」という名の「死」が眠っている。目醒めた「死」=恐怖をカンヴァスという2次元の柩の中ヘ封じ込めるのが、「自画像」を描く画家の真摯な力業であろう。よって多くの「自画像」は自己の「死」という幻の黒枠で(あたかも未来の「遺影」のように)縁取られることになる。当然その痛ましい絵を観ている鑑賞者の方も何か実存的な思索ヘと否応なしに引き込まれて行く。ある人は顔を顰め、ある人は薄ら笑いを浮かべ、ある人は涙を流す。〈ジョニの肖像〉はゴッホの自画像の模写になっているという面で、何重もの合せ鏡の観照になっている。ゴッホと彼の「自画像」A・B、ジョニと彼女の「自画像」、ゴッホとジョニ‥‥もし「死」の他にユーモアやペーソスを感じたとすれば、それはゴッホとジョニと貴方の三者の関係性の中にあるはずだ。

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    《Turbulent Indigo》のUS盤(紙ケース仕様)は額装された絵の左側がインディゴではなくオレンジ色で、3面ジャケットを左右に開くと同色の壁面に掲げられているジョニ自筆の「絵画」5点を鑑賞出来る仕組みになっている(彼女は都内で個展を開いたこともある)。穏やかな表情を見せてソファで微睡むオレンジ色の着衣の女性、背後の窓越しに見渡せる海(湖)と空は夕焼けなのか、橙色に染まっている(CD収納用のスリットが入った見開き右の絵)。野外会食(ピクニック)なのか、果樹の下の白いテーブルクロスの掛かった長テーブルと、その上に用意された昼食(パンケーキ、果物、赤ワイン)、2脚の椅子とバスケット類のある昼下がり。ゴッホ風のタッチで描かれた3点の〈風景画〉──渓谷、海(湖)、有刺鉄線のある岸辺──は時空を遙か遠く遡り、あの狂おしく「燃え上がる緑の糸杉」や、眩暈のように「グルグル回る星月夜」の世界へと誘う。ゴッホも最期には「ピストル自殺」を企てたのだった。歌詞ブックレット(20頁)の中の写真、額に収まった〈ジョニの肖像〉を両手に抱えてニッコリ微笑むジョニが、それらのゴッホに纏わる重苦しさを多少なりとも緩和化しているようにも見受けられるのだが‥‥。

    ゴッホの絵を手に入れたいと欲する人たちが値段を釣り上げる。エスキモーや婦人たちから取り上げる。そして絵を品良く、正常な、小綺麗なものヘと変えてしまう。ピストル(散弾銃?)を自分の躰に向けているゴッホの姿を、麦畑に蹲る血塗れの姿を目撃したのか、「荒れ狂った藍色」について何を知っているのか?‥‥〈Turbulent Indigo〉というアルバム・タイトル曲の中でジョニは苛立だしげに問いかける──《貴方たちは一体ゴッホの何を見て来たのか?》と。毳々しい色彩の田畑、怖しい青空を飛び回る毒々しい鴉の群(最期の作品といわれる《カラスのいる麦畑》の描写)、黄金のフレーム(額)の中、ロープで仕切られた絵画(ゴッホ美術館内のイメージ)。ツアーガイドに案内された観光客たちは「気狂い病院」(サン・レミの精神病院)やゴッホが自ら切り取った「耳」について口々に語り出す。被害妄想的なアルルの住民たちは自宅の周辺を徘徊する「狂人」を「家に近寄らせるな!」と排除しようとする。しかし「狂人」は彼らの家庭の暖炉(家族愛の象徴)に小便を引っかけ、「荒れ狂った藍色」の世界へ彼らを否応なしに引き摺り込む。

    歌詞の後半はウインセントが弟のテオに宛てた夥しい「ゴッホの手紙」(1872ー1890)からの引用だろう。《...All my little landscapes, all my yellow afternoons, stack up around this vacancy like dirty cups and spoons》という最終部の一節は前述したCDジャケ内の「ミニ画廊」にも記されている重要箇所で、「Turbulent Indigo」と対立概念になっている「Yellow Afternoon」という暖かくも明るい響きはゴッホが足繁く通ったという食堂やゴーギャンと共同生活したアルルの「黄色い家」、あるいは某生保会社が破格の値で落札した1点を含む〈向日葵〉たちを思い出させるし、「絶筆」と言われる麦畑の黄色と空の藍色の凄まじい相克へと果てしなく広がって行く。そして瞬くとゴッホの〈自画像〉Aの赤と橙色、〈ジョニの肖像〉を飾るオレンジ色の壁面の前に一瞬にして引き戻される。

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    ゴッホの「ピストル自殺」の反映なのか、「銃」を意味する単語(gun, pistol, shotgun, rifle)頻出する。冒頭の〈Sunny Sunday〉‥‥孤独な女狙撃手(ニキータ)を想わせるヒロインの1日の素描に「ガン」や「ピストル」が、表題曲にゴッホの「ショットガン」──普通は「拳銃」と表記するところをジョニは敢えて「散弾銃」という言葉を使う。不吉なカラスを撃つのには相応しいけれど、上着のポケットに入るだろうか?──が登場するのは頷けるとしても、《子供たちが銃を隠し持って学校へ行く》とか、比喩的ではあるが《ライフルの射程距離内で話し合う》とかいう表現が散在しているのはジョニのアルバムの中でも極めて異例ではないだろうか。蔓延する性と暴力に抗議する〈Sex Kills〉の苦渋に満ちた歌詞を嚥下すると、より深い彼女の懊悩が躰の内側からジンワリと効いて来る。

    ジョニの〈Sex Kills〉が全編お先真っ暗の夜道で、ユーモアのセンスに欠けているわけではない。何故なら、この曲は次のように歌い始められるのだから‥‥《キャデラックの直ぐ後ろに停まった。信号待ちをしていたのだ。前の車のナンバープレートが見えた──「氷そのもの(JUST ICE)」って書いてある。裁判官 / 正義(Justice)って、氷なの?》。この箇所で笑えない人は救われない。以下の詞の中で「氷の女判事」(正義の女神?)に変身したジョニ自身が手厳しい「判決」を下すという趣向なのだ。ピカソと「彼女」の洒落た出逢いを軽妙なタッチで点描する〈Yvette In English〉が後半にあるとはいえ、アルバム全体を愉しんで愛聴する心境にまでに至らないのは往年の名曲──たとえば〈Help Me〉や〈Big Yellow Taxi〉といった軽快なヒット・チューンが見当たらないことにも起因するのかもしれない。今回のリプリーズ復帰作がゲフィン時代の厚ぼったく重苦しいサウンドから脱却しているのは、ヘヴィーな歌詞内容とのバランス感覚に拠るものだろう。ちょうどアルル時代のウィンセント・ファン・ゴッホの色彩とフォルムのように。

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    • タイトルは『ジェニーの肖像』(ロバート・ネイサン)のモジリです^^

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    Turbulent Indigo

    Turbulent Indigo

    • Artist: Joni Mitchell
    • Label: Reprise
    • Date: 1994/10/13
    • Media: Audio CD
    • Songs: Sunny Sunday / Sex Kills / How Do You Stop / Turbulent Indigo / Last Chance Lost / Magdalene Laundries / Not To Blame / Borderline / Yvette In English / Sire Of Sorrow(Job's Sad Song)


    熱帯雨林の彼方へ

    熱帯雨林の彼方へ

    • 著者:カレン・テイ・ヤマシタ(Karen Tei Yamashita)/ 風間 賢二(訳)
    • 出版社:新潮社
    • 発売日:2014/06/30
    • メディア:単行本
    • 目次:事の始まり / 発展途上の世界 / さらなる発展 / 無垢の喪失 / さらなる喪失 / 回帰 / 訳者あとがき / 解説(瀧井 朝世)


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